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委任状を「行使しない会社」――SAAF経営権紛争が露呈させた上場ガバナンスの臨界

東証グロース市場に上場するSAAFホールディングスをめぐる経営権紛争が、通常の委任状争奪戦(プロキシーファイト)の枠を超え、上場企業ガバナンスの臨界を問う事態へと発展している。ダイヤモンド・オンラインが報じたところによれば、2026年5月12日に開かれた同社の臨時株主総会において、会社側は自らが委任状勧誘によって集めた議決権を、あえて「不行使」とする対応に出たとされる。

株主総会の実務において、会社が集めた委任状を行使しないという選択は、極めて異例である。委任状とは本来、勧誘者の提案に賛同する株主が、その意思を議決権行使に反映させるために託すものである。それをあえて行使しないという判断は、単なる手続上の技巧ではなく、経営陣が自らの地位を保全するために株主総会という制度そのものを機能不全に追い込む選択に等しい。本稿では、報じられている事実関係を手がかりに、この紛争が日本の上場企業ガバナンスに突きつける論点を整理する。

「委任状不行使」という選択の異常性

委任状勧誘は、金融商品取引法とその関連規則によって枠づけられた制度である。上場企業の株主総会において、経営陣あるいは特定の株主が、他の株主から議決権行使の代理権を集め、自らの提案を可決へと導くために用いられる。委任状を託した株主は、勧誘者が自らの意思に沿って議決権を行使することを当然の前提としている。

したがって、会社側が自ら集めた委任状をあえて行使しないという対応は、この制度の根幹を裏切るものである。報道からは会社側の意図が完全には明らかでないが、集めた議決権を意図的に投じないことは、総会における決議の成否や定足数の充足に影響を及ぼしうる。仮にそれが、株主側の提案の可決を阻み、あるいは決議そのものの効力を後日争うための布石として選択されたのであれば、株主総会という意思決定機関を、経営陣が自らの都合で機能不全に追い込んだことになる。手続の一場面を捉えた技巧ではなく、株主民主主義の前提を掘り崩す行為として捉えるべきである。

SAAFは、2018年に地盤調査・地盤改良を手がけるサムシングと、ITコンサルティングのITbookが経営統合して発足した企業である。異なる事業文化を持つ二社の統合を出自とする経緯は、今回の内部対立の背景を読み解くうえで無視できない。統合によって生まれた持株会社が、その後の経営権をめぐって深刻な内紛に陥ったという事実自体が、統合後のガバナンス設計の難しさを物語っている。

総会後の実力行使と取締役選任の効力

さらに異例なのは、総会後の対応として報じられている内容である。ダイヤモンド・オンラインによれば、会社側は本社事務所の明け渡しを拒み、ガードマンを配置したうえで、株主側が新たに選任したと主張する役員の入場を実力で阻もうとする対応に出たとされる。

ここには、日本の会社法が抱える構造的な弱点が露呈している。株主総会で選任されたと主張する取締役と、従前から地位にあると主張する取締役とが並立した場合、いずれが正当な機関構成員であるかは、最終的には裁判所の判断を待たなければ確定しない。会社法は、株主総会決議の取消しの訴え(831条)や、決議の不存在・無効確認の訴え(830条)といった事後的な救済手段を用意しているが、これらの手続には相応の時間を要する。その空白期間において、現に建物を占有し、登記や実印を握る側が事実上の支配を継続できてしまう。「占有する者が強い」という物理的現実が、法的な正当性の確定に先行してしまうのである。

上場企業の本社が、役員の入場をめぐって物理的な攻防の舞台となること自体、資本市場の常識からは想像しがたい。しかしこの倒錯は、決議の効力確定に時間を要するという制度上の空隙が、力による現状維持を誘発する構造の帰結でもある。

会社防衛コストは誰が負担するのか

この紛争において看過できないのが、いわゆる「会社防衛」に投じられた費用の規模である。SAAFの適時開示によれば、防衛対応に伴う費用として2026年3月期に約1.8億円が計上され、最終的な総会対策費は約2億円に上る見込みとされる。同じ期の当期純利益が5億円程度であることを踏まえれば、一年分の利益の四割前後が、経営権紛争への対応に費消された計算になる。

問題の核心は、この費用が誰の利益のために、誰の負担で支出されたのかという点にある。会社の資金は株主に帰属する共同の財産であり、取締役は善管注意義務および忠実義務のもとで、会社および株主共同の利益のためにこれを用いる責務を負う。防衛費用が、真に会社の企業価値を守るための支出であったのか、それとも現経営陣の地位保全という私的利益のための支出であったのか——両者の線引きは容易ではないが、少なくとも、その巨額のコストを最終的に負担するのが一般株主であるという事実は動かない。経営陣の自己保存と株主の利益が乖離するとき、会社財産がいずれのために用いられるかは、そのガバナンスの質を測る試金石となる。

Schoo株取得をめぐる資金の環流疑惑

紛争の構図をさらに複雑にしているのが、SAAFによるSchoo株式の取得をめぐる問題である。報道によれば、SAAFはオンライン学習事業を手がけるSchooの株式約2割を、約16億円を投じて取得した。ところがその後、当該株式の売主が、SAAF自身の株式を買い集めていた事実が判明したとされ、資金の環流をめぐる疑惑が指摘されている。

仮に、会社が支払った買収資金が、めぐりめぐって現経営陣を支持する側によるSAAF株取得の原資となっていたとすれば、それは事業上の合理性を装った資金還流であり、経営権の維持を目的とした会社資金の目的外使用という疑いを免れない。取締役が自らの地位保全のために会社資金を用いる構図は、忠実義務に真っ向から抵触し、利益相反取引としての性格を帯びる。

もっとも、現時点でこれはあくまで報道により指摘されている疑惑の段階にあり、取引の全容や当事者の意図が確定しているわけではない。事実関係の解明は、独立した第三者委員会による調査や、監督当局・司法の判断に委ねられるべきものである。だが、こうした疑念が生じる余地を残した資本取引が、経営権紛争の渦中で実行されたこと自体が、当事会社のガバナンスに対する市場の信認を大きく損なっていることは疑いない。

日本の上場ガバナンスが抱える構造的欠陥

SAAFの事例は、特異な一企業の逸脱として片付けられるものではない。それは、日本の上場企業ガバナンスが抱える複数の構造的欠陥が、一つの舞台の上で同時に露呈した事例と見るべきである。

第一に、経営権防衛の名目で会社財産を投じることへの歯止めの弱さである。経済産業省が2023年に公表した「企業買収における行動指針」は、買収への対応が経営陣の保身に流れることを戒め、取締役会が企業価値と株主共同の利益を基準に判断すべきことを求めた。しかし指針はあくまで規範であり、それを踏み越えた行動に対する実効的な制裁は乏しい。第二に、株主総会決議の効力や会社の代表権をめぐる争いが、迅速に決着しないという司法救済の限界である。決着までの空白が、実力による現状維持を許してしまう。第三に、独立社外取締役や監査体制が、経営陣の暴走に対する内部からの抑止として十分に機能していない現実である。

これらの欠陥は、平時には潜在化している。しかし経営権紛争という非常時においてこそ、ガバナンスの真価は試される。SAAFをめぐる事態は、その試験に日本の制度と一企業がいかに脆弱であるかを、あらためて突きつけている。

結語——「資本の歪み」としての自己保存

上場とは、広く一般から資本を集める代わりに、経営を株主による規律に服させるという約束の上に成り立つ制度である。委任状の不行使、本社への籠城、巨額の防衛コスト、そして資金還流の疑惑——報じられている一連の事態に共通するのは、その約束が経営陣の自己保存の前に反故にされているのではないか、という疑いである。

経営権をめぐる争いそのものは、資本市場において必ずしも否定されるべきものではない。むしろ、経営の非効率を正す規律として機能する側面もある。問題は、その争いにおいて、株主に帰属すべき価値と、株主が有するはずの意思決定権とが、経営陣の地位保全のために毀損されることにある。それはまさしく、資本が本来向かうべき方向から捻じ曲げられる「資本の歪み」にほかならない。SAAFをめぐる一連の経緯は、その歪みが上場企業の内部でどこまで進行しうるかを示す実例として、記録されるべきである。