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なぜ賃金は下がらず、失業が増えるのか――ロバート・ホールが変えた労働市場の経済学

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景気が悪化し、企業の売上や生産活動が縮小すれば、労働者の賃金も下がるのだろうか。経済学の基本的な市場モデルでは、需要と供給の変化に応じて価格が調整される。しかし現実の労働市場では、景気が悪くなっても賃金が同じ割合で低下するとは限らない。一方で、企業の求人は減少し、失業者が次の仕事を見つけることが難しくなる。

なぜ賃金の変化は限定的なのに、雇用は大きく変動するのか。

この問題に取り組んだ経済学者の一人が、米スタンフォード大学のRobert E. Hall(ロバート・ホール)である。Hallは2005年の「Employment Fluctuations with Equilibrium Wage Stickiness」で、賃金が硬直的であっても経済的な均衡が成立し、景気変動によって求人や失業が大きく変化する仕組みを分析した。

さらに2008年には、Paul R. Milgrom(ポール・ミルグロム)との共同研究「The Limited Influence of Unemployment on the Wage Bargain」で、賃金交渉の仕組みそのものから、賃金が労働市場の状況に強く反応しない理由を説明した。

二つの研究には重要な違いがある。2005年の論文では、賃金の硬直性が均衡と両立し、雇用変動を大きくする仕組みを提示した。一方、2008年の共同研究では、交渉の延期に伴う費用に注目することで、賃金の反応が小さくなる理由を理論的に説明した。

これらの研究は、失業を単なる賃金調整の失敗として捉えるのではなく、企業と求職者が出会い、交渉し、雇用関係を形成する過程から理解しようとした点に特徴がある。

失業はなぜ発生するのか――サーチ・マッチング理論

標準的な市場モデルでは、価格が調整されることで需要と供給が一致するという考え方が重要な役割を果たす。しかし、労働市場では、働きたい人と雇いたい企業が存在するだけで、直ちに雇用関係が成立するわけではない。

求職者は求人情報を探し、自分の技能や希望に合った企業へ応募する。企業も応募者を選考し、必要な技能や経験を持つ人材を見つけなければならない。

こうした過程には時間や費用がかかる。経済学では、仕事を探す活動と、企業と労働者が出会う過程を分析する枠組みを、サーチ・マッチング理論と呼ぶ。

この理論では、失業が存在していても、それだけで市場が均衡していないとは限らない。求人を出している企業と仕事を探している人が同時に存在することも、探索やマッチングに摩擦がある労働市場では起こり得る。

労働市場の分析で重要となるのは、現在失業している人の数だけではない。新しく失業する人がどの程度いるのか、失業中の人がどの程度の確率で就職するのかという、人の移動である。

この視点からHallは、不況時に失業が増える仕組みを調べた。

失業の増加は解雇よりも就職率の低下によって説明できるのか

Hallは2005年の「Job Loss, Job Finding, and Unemployment in the U.S. Economy over the Past Fifty Years」で、米国の長期データを利用し、失業への流入と失業からの退出を分析した。

研究では、対象とした米国の景気循環について、失業率の上昇は主として、失業者が仕事を見つけにくくなることによって説明されると報告された。

不況による失業の増加は、企業が従業員を解雇することで生じると考えられやすい。しかし、Hallが示したのは、それだけでは労働市場の変動を十分に理解できないということである。

例えば、ある時点で失業者が100人いるとする。毎月20人が新たに失業し、20人が就職すれば、失業者数は変わらない。

ところが、景気の悪化によって新たに失業する人数が20人のままであっても、就職できる人数が10人に減少すれば、失業者数は増加する。

これは仕組みを説明するための単純な例である。現実の失業者数は、労働市場への参入や退出などにも左右される。

重要なのは、解雇が大きく増えなくても、失業者が仕事を見つける確率が低下すれば、失業が増加し得ることである。

ただし、Hallの研究結果が、あらゆる国や時代にそのまま当てはまるわけではない。景気後退の性質や労働市場の制度、失業への流入と退出の測定方法によっても、両者の重要性は異なり得る。

それでも、この研究は失業率の変動を理解するうえで、企業の求人や採用活動が重要な役割を果たすことを示した。

標準的なモデルはなぜ失業の大きな変動を説明できなかったのか

Hallの賃金硬直性研究を理解するうえで重要なのが、Robert Shimer(ロバート・シマー)の2005年の論文「The Cyclical Behavior of Equilibrium Unemployment and Vacancies」である。

HallとShimerの2005年の論文は、ともに『American Economic Review』第95巻第1号に掲載された。同じ時期に、サーチ・マッチング理論が抱える問題と、その問題を説明するための新たなモデルが研究されていた。

標準的なサーチ・マッチングモデルでは、企業が労働者を採用して得る利益と、労働者が雇用されて得る利益を、賃金交渉によって分け合う仕組みが用いられる。

その代表的な方法が、ナッシュ交渉による賃金決定である。

この仕組みでは、景気が改善して労働者の生産性が上昇すると、賃金も上昇する方向に調整される。反対に、生産性が低下すれば、賃金も低下する方向に動く。

そのため、生産性の変化が企業にとっての採用利益に及ぼす影響は、賃金の調整によって一部が相殺される。

Shimerは、こうした標準的なモデルが、米国で観察される求人と失業の大きな変動を十分に再現できないことを示した。

論文によれば、米国の求人・失業比率の標準偏差は、平均労働生産性の標準偏差の約20倍に達する。一方、標準的なモデルでは、両者の変動の大きさがほぼ同程度になる。

問題は、現実の求人や失業が、生産性の変化から標準的なモデルが予測する以上に大きく動くことである。

この問題は、後に「Shimer puzzle(シマー・パズル)」として知られるようになった。

Hallの2005年論文は、賃金の硬直性を取り入れることで、標準モデルでは説明しにくい求人や失業の大きな変動を理解しようとした研究である。

賃金が硬直的であると失業はなぜ大きく変動するのか

Hallは2005年、「Employment Fluctuations with Equilibrium Wage Stickiness」を発表した。

この研究の中心にあるのは、賃金が景気変動に対して十分に調整されない場合、企業が新たに従業員を採用する利益が大きく変動するという考え方である。

ここでいう賃金の硬直性は、すべての労働者の名目賃金が常に一定であることを意味しない。Hallのモデルでは、企業と労働者が雇用関係から得る利益を分け合える範囲内で、賃金が一時的な経済環境の変化に対して調整されない状況を考える。

特に重要なのは、新たな雇用関係で企業が支払うと見込む賃金と、採用によって得られる利益の関係である。

例えば、企業が新たな従業員を雇用すると、生産活動によって収益を得られる可能性がある。一方、企業は賃金を支払う必要がある。

景気が悪化し、追加的な労働者を採用することで得られる生産上の利益が減少した場合を考えてみよう。

賃金が生産性の変化に合わせて低下すれば、企業が採用によって得る利益の減少は一部緩和される。

しかし、賃金があまり下がらなければ、企業が新しい労働者を採用することによって得られる利益は大きく縮小する可能性がある。

その結果、企業は求人を減らし、採用活動を縮小する。

すると、失業者が仕事を見つける確率が低下し、失業率が上昇し得る。

反対に景気が回復した場合、賃金がすぐには上昇しなければ、企業にとって新たに労働者を採用する利益が大きくなり、求人が増える可能性がある。

このように、賃金が硬直的であると、比較的小さな生産性の変化が、企業の採用判断を通じて大きな雇用変動につながり得る。

Hallの研究は、賃金の硬直性をモデルに組み込むことで、標準的なサーチ・マッチングモデルでは再現しにくかった雇用変動を説明しようとしたのである。

ただし、Hallが2005年の論文で、現実の賃金がどの程度硬直的なのかを直接実証したわけではない。論文の主眼は、賃金の硬直性が均衡のもとで成立し得ることと、それによって雇用変動が大きくなり得ることを示す点にある。

賃金が硬直的でも効率的な雇用関係は成立する

Hallの2005年研究には、もう一つ重要な特徴がある。

それは、賃金が硬直的であっても、企業と労働者の双方に利益がある雇用関係が成立し、維持され得るという点である。

賃金が十分に調整されない場合、本来成立するはずの雇用が失われたり、非効率な解雇が生じたりするのではないかという問題が考えられる。

Hallはこれに対して、企業と労働者の双方が雇用関係から利益を得られる賃金の範囲に注目した。

企業にとっては、その労働者を雇用することで得られる利益が、賃金などの負担を上回っている必要がある。

一方、労働者にとっては、雇用されることによる利益が、雇用関係を持たない場合の利益を上回っている必要がある。

双方に利益が存在する範囲では、賃金が直ちに調整されなくても、雇用関係を維持することが合理的になり得る。

Hallのモデルでは、賃金の硬直性によって、相互に利益のある雇用関係が成立しなくなったり、既存の雇用関係が非効率に終了したりすることはない。

それでも、賃金の変動が限定的であれば、企業が採用によって得る利益の変化が大きくなり、求人や失業の変動が拡大する。

ここに、この研究の理論的な特徴がある。

賃金がすぐに変化しないという現象を、単純な市場の不均衡として扱うのではなく、雇用関係のなかで成立し得る均衡と、経済全体の雇用変動を結び付けて分析したのである。

2008年の研究は賃金交渉の仕組みをどう変えたのか

Hallは2008年、Paul R. Milgromとともに「The Limited Influence of Unemployment on the Wage Bargain」を発表した。

2005年の研究では、賃金硬直性が均衡と両立し、雇用変動を大きくする可能性を示した。ただし、現実の経済でなぜそのような賃金が選ばれるのかを、具体的な交渉の仕組みから十分に説明することが主目的ではなかった。

これに対して2008年の共同研究では、企業と求職者の交渉過程そのものをモデル化した。

標準的なナッシュ交渉モデルでは、企業と求職者が合意に至らなかった場合、それぞれが別の相手を探すことで得られる利益が重要となる。

例えば、失業者が多い状況では、求職者が別の仕事を見つけることは難しくなると考えられる。そのため、失業率の上昇が賃金を引き下げる方向に作用する可能性がある。

しかし、HallとMilgromは、企業と求職者が互いに雇用関係を結ぶ価値を認めている場合、交渉を完全に打ち切ることが必ずしも現実的な選択肢になるとは限らないと考えた。

そこで著者らが注目したのが、交渉を延期するという選択肢である。

求職者がより良い条件を求めて交渉を長引かせれば、就業開始が遅れる可能性がある。企業も採用が遅れることで、その労働者を雇用した場合に得られる生産上の利益を失う可能性がある。

このような交渉では、賃金の水準が、交渉を打ち切って別の相手を探す場合の利益よりも、交渉を遅らせる費用に強く左右され得る。

HallとMilgromは、この仕組みをモデル化することで、失業率の変化が賃金に及ぼす影響が限定的になり、標準的なモデルよりも大きな雇用変動が生じ得ることを示した。

重要なのは、失業率が賃金にまったく影響しないと主張したわけではないことである。研究は、賃金交渉における外部の労働市場環境の影響が、従来のモデルで想定されるよりも小さくなり得ることを説明したものである。

2005年と2008年の研究は何が違うのか

Hallの二つの研究は、どちらも賃金の硬直性と雇用変動の関係を扱っているが、研究上の問いは異なる。

2005年の研究が示したのは、賃金が一時的な経済環境の変化に対して硬直的であっても、企業と労働者の双方に利益がある雇用関係を維持できるということである。

そのうえで、賃金が十分に調整されないことにより、企業の採用利益が景気変動に対して大きく変化し、求人や失業の変動も拡大する仕組みを示した。

一方、2008年の研究では、なぜ賃金が労働市場全体の失業状況に強く連動しない場合があるのかを、具体的な交渉モデルによって説明した。

企業と求職者が交渉を続ける場合、双方にとって交渉の延期には費用が生じる。その相対的な大きさによって賃金が決まるなら、外部の失業率の変化が賃金に与える影響は限定的になり得る。

このように、2005年の研究は賃金硬直性と均衡の両立を示すことに重点があり、2008年の研究は賃金の調整が限定的になる交渉上の仕組みを提示した点に特徴がある。

両者を続けて読むことで、賃金が十分に動かないときに失業が大きく変動する理由と、そもそも賃金がなぜ大きく動かない場合があるのかという、二つの問題を区別して理解できる。

Hallは労働市場の経済学の何を変えたのか

Hallの研究によって明らかになった重要な視点は、賃金の調整と雇用の調整が、必ずしも同じ大きさで生じるわけではないということである。

企業と求職者が出会うには時間と費用がかかる。さらに、雇用関係が成立する際の賃金は、企業と労働者の交渉によって決まり、その交渉結果が外部の失業率に強く連動するとは限らない。

こうした状況では、景気の変化に対して賃金が大きく動かなくても、企業の求人や採用活動は大きく変化し得る。

その結果、不況時には失業者が仕事を見つける確率が低下し、失業率が上昇する可能性がある。

Hallの2005年論文は、賃金が硬直的であっても均衡が成立するモデルを示し、その仕組みが求人や失業の変動を大きくすることを分析した。2008年のHall・Milgromの共同研究は、賃金交渉における延期費用を重視し、なぜ賃金が労働市場全体の状況に強く反応しない場合があるのかを説明した。

これらの研究は、失業の唯一の原因を示したものではない。労働市場の制度、労働者の技能、企業の採用費用など、現実の失業には多くの要因が関係する。

それでも、賃金、求人、就職確率という異なる要素を、企業と労働者の合理的な意思決定に基づいて結び付けたことは、現代労働経済学とマクロ経済学における重要な理論的貢献である。

失業を理解するには、働いていない人の数だけではなく、企業がなぜ求人を出すのか、求職者がどのような条件で雇用されるのか、その交渉がどのように成立するのかを考える必要がある。

Hallの研究は、景気変動によって失業が大きく増減する仕組みを、こうした労働市場の内部から説明するための理論を発展させたのである。

参考資料・関連研究

1.Robert E. Hall(2005年・賃金硬直性と雇用変動)

"Employment Fluctuations with Equilibrium Wage Stickiness," American Economic Review, Vol. 95, No. 1, pp. 50–65.

米国経済学会・公式論文ページ

2.Robert E. Hall(2005年・原著論文全文PDF)

"Employment Fluctuations with Equilibrium Wage Stickiness."

スタンフォード大学・著者公開PDF

3.Robert E. Hall・Paul R. Milgrom(2008年・賃金交渉)

"The Limited Influence of Unemployment on the Wage Bargain," American Economic Review, Vol. 98, No. 4, pp. 1653–1674.

米国経済学会・公式論文ページ

4.Robert E. Hall・Paul R. Milgrom(賃金交渉研究の著者公開稿PDF)

"The Limited Influence of Unemployment on the Wage Bargain."

スタンフォード大学・2007年10月20日版

5.Robert E. Hall(2005年・失業と就職率の変動)

"Job Loss, Job Finding, and Unemployment in the U.S. Economy over the Past Fifty Years," NBER Macroeconomics Annual, Vol. 20, pp. 101–137.

シカゴ大学出版局・学術誌公式論文ページ

6.Robert Shimer(2005年・失業と求人の変動)

"The Cyclical Behavior of Equilibrium Unemployment and Vacancies," American Economic Review, Vol. 95, No. 1, pp. 25–49.

米国経済学会・公式論文ページ