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期待値と確実性等価のあいだ――2026年ノーベル経済学賞ロバート・ホールが測った「分散できないリスクの負担」(前編)

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ある資産の価値は、誰にとっても同じなのだろうか。

金融経済学の標準的な枠組みでは、資産の価値は、その資産が生み出す将来のキャッシュフローを、リスクに応じた割引率で割り引いた現在価値として定まる。この枠組みのもとでは、資産の価値は保有者が誰であるかに依存しない。前提となっているのは、保有者が十分に分散された資産構成を持ち、望むときに資産を売買できるという市場の条件である。

では、その前提が崩れたとき、資産の価値はどうなるのか。2026年のノーベル経済学賞を受賞したロバート・ホールが、スーザン・ウッドワードとともに2010年に発表した論文は、この問いに定量的な答えを与えた研究である。

本稿は前後編の二回構成とする。前編では、ホールらの研究の内容と、その理論的な背景を整理する。後編では、この研究が非上場株式の価値評価をめぐる日本の制度、すなわち相続税の評価と、裁判所による価格決定にどのような問いを投げかけるのかを検討する。

2026年の受賞と、ホールの研究の射程

2026年のノーベル経済学賞は、10月12日の発表により、スタンフォード大学のロバート・ホールとコロンビア大学のマイケル・ウッドフォードの二人に贈られることが決まった。二人の業績は、景気の安定化を論じるマクロ経済学に、家計や企業の行動というミクロの基礎を与えたことにあるとされる。

ホールの業績として広く知られているのは、恒常所得仮説のもとでは消費の変化が予測不能になることを示した1978年の論文である。しかし、ホールの研究はマクロ経済学にとどまらない。税制と投資行動の分析(1967年、デール・ジョルゲンソンとの共著)、国ごとの生産性格差の分析(1999年、チャールズ・ジョーンズとの共著)、労働市場における賃金の硬直性の分析(2005年)など、その対象は経済学の広い範囲に及ぶ。

本稿が取り上げる2010年の論文は、これらに比べれば引用の少ない仕事である。しかし、市場で取引されない株式の価値をどう考えるかという問題に対して、最も直接的な示唆を与える研究である。

論文の問い――起業家は、どれだけの価値を受け取っているのか

論文の題名は「起業における分散できないリスクの負担」(American Economic Review、2010年)である。

ホールとウッドワードは、ベンチャーキャピタルの出資を受けた米国の新興企業のデータを用い、創業者が株式として受け取る報酬の価値を推計した。創業者は、市場水準を下回る給与を受け入れる代わりに、会社の株式を保有する。その株式は、会社が株式を公開するか、他社に買収されたときに、初めて現金化される。

推計結果を見ると、典型的な創業者が会社の公開または売却によって最終的に手にする現金は、平均すれば約580万ドルに達する。しかし、その分布は極端に偏っている。創業者のおよそ4分の3は、その時点で何も受け取っておらず、ごく一部の創業者が10億ドルを超える金額を手にしていた。

期待値と確実性等価

この偏った分布のもとで、創業者にとっての株式の価値を測るために、ホールらは「確実性等価」という概念を用いた。

確実性等価とは、不確実な結果をもたらす資産を、確実に受け取れる一定の金額と交換するとき、保有者にとって両者が等しい価値を持つ金額のことである。保有者がリスクを嫌う限り、確実性等価は期待値を下回る。その差は、リスクを負担することの対価、言い換えれば、保有者がリスクの負担によって失っている価値を表す。

ホールらは、相対的リスク回避度を2という、経済学で標準的とされる水準に置いて計算した。その結果、創業時点の創業者にとって、株式の確実性等価はゼロをわずかに上回る程度にとどまった。平均で数百万ドルにのぼる期待値のほとんどが、分散できないリスクの負担によって相殺されてしまうのである。

負担を生む二つの条件

期待値と確実性等価の間に、これほど大きな乖離が生じる理由は、二つの条件にある。

第一は、分散の不可能性である。上場株式の投資家は、多数の銘柄を組み合わせることで、個別企業に固有のリスクを打ち消すことができる。金融経済学の標準的な理論が、個別企業の固有リスクには対価が支払われないとするのは、このためである。しかし、創業者の財産の大部分が一社の株式に集中している場合、その固有リスクは打ち消されることなく、保有者がそのまま負担することになる。

第二は、売却の制約である。創業者は、会社の公開や売却が実現するまで、保有する株式を自由に処分することができない。リスクの一部を手放したいと考えても、その手段がない。

この二つの条件が重なるとき、市場の標準的な枠組みで算定される価値と、保有者にとっての価値との間には、構造的な乖離が生じる。ホールらが「負担」と呼んだのは、この乖離である。

理論的な背景――ホール自身の消費研究との接続

この結論は、保有者の主観的な好みの問題として片づけることはできない。その根拠は、ホール自身が積み重ねてきた消費の研究にある。

1978年の論文は、家計が生涯を通じて消費の水準をならそうとすることを前提に、消費の変動の性質を明らかにした。1988年の論文は、家計が将来の消費のために現在の消費を調整する度合い、すなわち異時点間の代替の弾力性を推計し、その値が0.1程度ときわめて小さいことを示した。家計は消費の変動を強く嫌うのである。さらに、フレデリック・ミシュキンとの1982年の共著論文は、家計のおよそ2割が流動性の制約のために、消費をならすことができていないことを示した。

これらの研究を合わせると、一つの命題が導かれる。家計は消費の変動を強く避けようとするが、流動性のない資産に財産が集中していると、それができない。その「できなさ」は、資産の価値を保有者にとって引き下げる、測定可能な経済的コストである。

関連する研究――非流動性と集中保有のコスト

ホールらの研究は、非流動性と集中保有のコストを測ろうとする一連の研究の中に位置づけられる。

・1991年、ウィリアム・シルバーは、一定期間の売却が制限された上場企業の株式が、同じ企業の制限のない株式に比べて、平均で約3割低い価格で取引されていることを示した。

・1995年、フランシス・ロングスタッフは、売却の機会が制約されることによる価値の減少について、理論的な上限を導いた。売却できない期間が長く、資産の価格の変動が大きいほど、その上限は大きくなる。

・2002年、トビアス・モスコウィッツとアネット・ヴィッシング=ヨルゲンセンは、米国の家計が保有する非上場企業の株式が、集中したリスクを負っているにもかかわらず、上場株式を上回る収益をもたらしていないことを示し、これを「プライベート・エクイティ・プレミアムの謎」と呼んだ。

・2003年、マティアス・カール、ジュン・リウ、フランシス・ロングスタッフは、株式公開後も売却が制限される経営者の株式について、保有者にとっての価値が市場価格を大きく下回ることを示した。

これらの研究に共通するのは、市場で自由に売買できない資産の価値は、市場価格を基準とする評価とは異なる論理で考えなければならない、という認識である。

前編のまとめ

ホールらの研究が示したのは、資産の価値には二つの異なる尺度がありうるということである。一つは、資産そのものが生み出すキャッシュフローの期待値に基づく尺度であり、もう一つは、分散も売却もできない状況でその資産を保有する者にとっての確実性等価である。両者の乖離は、保有者の事情によって大きく変わり、場合によっては期待値のほとんどを打ち消すほどに大きくなる。

後編では、この二つの尺度の区別を手がかりに、非上場株式の価値をめぐる日本の制度を検討する。相続税の評価はどちらの尺度に基づいているのか。そして、裁判所が株式の「公正な価格」を定めるとき、保有者の負担はどのように扱われるべきなのか。

資産の価値は、保有者の条件から独立していない。分散も売却もできない保有者にとって、期待値は価値の尺度にならない。

関連URL・参考資料

・The Nobel Prize「The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel」

https://www.nobelprize.org/prizes/economic-sciences/

・熊本日日新聞「ノーベル経済学賞に米教授 経済安定化の基盤研究」(2026年10月12日)

https://kumanichi.com/articles/2045827

・Robert E. Hall, Susan E. Woodward「The Burden of the Nondiversifiable Risk of Entrepreneurship」(American Economic Review、2010年)

https://ideas.repec.org/a/aea/aecrev/v100y2010i3p1163-94.html

・Robert E. Hall「Stochastic Implications of the Life Cycle-Permanent Income Hypothesis: Theory and Evidence」(Journal of Political Economy、1978年)

・Robert E. Hall「Intertemporal Substitution in Consumption」(Journal of Political Economy、1988年)

・Robert E. Hall, Frederic S. Mishkin「The Sensitivity of Consumption to Transitory Income: Estimates from Panel Data on Households」(Econometrica、1982年)

・William L. Silber「Discounts on Restricted Stock: The Impact of Illiquidity on Stock Prices」(Financial Analysts Journal、1991年)

・Francis A. Longstaff「How Much Can Marketability Affect Security Values?」(Journal of Finance、1995年)

・Tobias J. Moskowitz, Annette Vissing-Jørgensen「The Returns to Entrepreneurial Investment: A Private Equity Premium Puzzle?」(American Economic Review、2002年)

・Matthias Kahl, Jun Liu, Francis A. Longstaff「Paper Millionaires: How Valuable Is Stock to a Stockholder Who Is Restricted from Selling It?」(Journal of Financial Economics、2003年)