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【山中裕の経済学サロン】「近づけ」を作る細胞――報酬側の主役たちと、消去学習との意外な重なり

前回はRspo2陽性の回避細胞を見ました。今回はその綱引きの相手方、正の価を担う細胞群を見ていきます
皆さん、こんにちは。前回、扁桃体基底外側核(BLA)の前部にあるRspo2陽性細胞が、光遺伝学的に回避行動の必要十分条件を満たすことを見ました。今回はその相手方、後部の基底核や外側核に分布し、正の価――報酬や接近行動に関わるとされる細胞群を見ていきたいと思います。
Ppp1r1b陽性細胞――当初の主役
Kim & Tonegawaらによる2016年の研究では、Rspo2陽性細胞と対をなす細胞群として、Ppp1r1b(通称DARPP-32)を発現する後部の主細胞が報告されました。光遺伝学的な操作では、この細胞群を活動させると報酬に関連した行動――ある場所への接近など――が引き起こされ、抑制すると報酬学習が妨げられるという結果が示されています。Rspo2陽性細胞との相互抑制についてはすでにお話ししたとおりで、この二つの集団は互いに綱を引き合う関係にあります。
ただし前々回申し上げたとおり、Ppp1r1bという遺伝子そのものは、より精度の高い単一核RNA解析では発現の検出が弱く、しかも一部の抑制性細胞でも発現が見られるなど、BLAの主細胞における「正の価」の万能マーカーとしての信頼性には疑問符がついています。行動レベルでの光遺伝学的な結果自体は再現されている一方、その細胞集団を遺伝子だけで過不足なく切り出せているかどうかは、なお検討の余地がある、という状況です。
Lypd1陽性細胞――外側核からの新しい候補
前々回ご紹介したとおり、外側核寄りにはLypd1、Rorb、Cdh13といった遺伝子を発現する細胞群があります。Limらの2024年の研究では、このLypd1陽性細胞が、摂食行動という文脈において正の価――つまり食べ物に近づく行動――に強く関わる集団として報告されています。
興味深いのは、これがRspo2陽性細胞と対をなす形で報告されている点です。前回お話ししたとおり、Rspo2陽性細胞は摂食特異的な負の価(苦い味や食欲がないときの拒否)を担う側面が強いことが分かってきましたが、Lypd1陽性細胞はその裏側、つまり摂食特異的な正の価(空腹時に食物に近づく行動)を担う集団として位置づけられています。負と正の対比が、単に「恐怖か報酬か」という粗い軸ではなく、「同じ行動カテゴリーの中の拒否と受容」というより具体的な軸で捉え直されつつある、ということです。
投射で定義される報酬細胞――BLAから側坐核へ
遺伝子マーカーによる分類とは別に、「どこへ投射するか」という基準で報酬細胞を定義する研究の系譜もあります。Namburi、Tyeらを中心とするグループの一連の研究では、BLAから側坐核(NAc)へ投射する主細胞の集団が、報酬に関連した学習において選択的に活動し、光遺伝学的にも報酬関連行動を駆動することが示されてきました。
これは遺伝子マーカーによる分類と完全に一致するわけではありません。投射先で定義した「NAc投射細胞」という集団と、遺伝子で定義した「Ppp1r1b陽性細胞」や「Lypd1陽性細胞」という集団は、大きく重なりながらも、完全に同じ集合ではないと考えるのが正確です。細胞のアイデンティティを「どの遺伝子を持っているか」で見るか、「どこに情報を送っているか」で見るかによって、少しずつ違う絵が浮かび上がってくる、ということです。
高脂肪食への選好を作るNPY経路
もう一つ興味深い経路として、BLAのNPY(神経ペプチドY)を発現する細胞から側坐核への投射があります。前々回、NPYは抑制性のニューログリアフォーム細胞やSST細胞の一部が分泌する物質としてご紹介しましたが、この経路では、BLAからNAcへ向かうNPY作動性の投射が、Y1受容体を介して、高脂肪食に対する選好を高めることが報告されています。
これは単なる「食べ物か否か」という粗い報酬ではなく、脂肪分の多い食品を特異的に好むという、かなり具体的な選好パターンに関わっている点が特徴的です。BLAの報酬系が一枚岩ではなく、栄養素の種類ごとにも枝分かれした配線を持っている可能性を示唆しています。
消去学習との重なり――報酬細胞は「恐怖を消す」側にも回る
ここまでの話を聞くと、「Rspo2細胞=恐怖、報酬細胞=報酬」という単純な二枚看板のように思えるかもしれません。しかし、Zhang、Kim、Tonegawaらが2020年に『Neuron』誌に発表した研究は、この理解に重要な修正を加えています。
この研究によれば、恐怖条件づけが成立したあとに消去学習――つまり「もう電気ショックは来ない」と学び直す過程――が進むと、もともと報酬に関連して活動していた細胞集団(Ppp1r1b陽性細胞を中心とする後部の細胞)が、消去学習の記憶を保持する役割も担うようになることが示されています。つまり、恐怖を「消す」というプロセスは、単に恐怖細胞の活動が弱まるだけでなく、報酬側の回路が積極的に動員される能動的なプロセスだということです。
これは臨床的にも実務的にも示唆に富む発見です。恐怖記憶の消去とは、恐怖のスイッチをオフにすることではなく、報酬・安全の記憶を新たに書き込むことによって、古い恐怖の記憶を上書きするプロセスに近い、ということになります。
事象の種類と細胞集団の対応、そして霊長類での注意点
ここまでの話を整理すると、電気ショックなどの身体的な脅威は前部Rspo2陽性細胞とCeCへの経路、苦い味や空腹でないときの食物拒否は同じRspo2系統の摂食特異的な部分集団、報酬学習や接近行動はPpp1r1b陽性細胞とNAc投射細胞、空腹時の食物への接近はLypd1陽性細胞、恐怖の消去学習の保持は本来報酬系だった細胞集団の転用、高脂肪食への選好はNPY・Y1受容体を介したNAc投射経路、という対応関係が見えてきます。
ただし、ここでも一つ大きな注意点があります。ここまでご紹介してきた知見の多くはマウスやラットで得られたものです。霊長類の扁桃体では、こうした「負の価の細胞」と「正の価の細胞」が、げっ歯類ほどきれいに解剖学的な区画(前部・後部)へと分離しておらず、同じ領域内でかなり入り混じって存在するという報告があります。げっ歯類で確立された「前部=負、後部=正」という空間的な地図を、そのままヒトの臨床応用や心理学的なモデルに当てはめることには、慎重さが必要です。
ガバナンスへの示唆
私がこの一連の知見から受け取るのは、「恐怖を消す」ということが、単に警戒を解除することではなく、別の何かを積極的に築くプロセスだという点です。企業においても、過去の失敗や不祥事への恐怖・萎縮を消し去ろうとするとき、単に「もう大丈夫だ」と言い聞かせるだけでは不十分で、その代わりとなる新しい成功体験や信頼の記憶を、組織として意図的に積み重ねていく必要があるのだと思います。次回は、ここまで見てきたRspo2細胞と報酬細胞が、実際にどのような出力先――側坐核、中心核、前頭前野・海馬――へと信号を送り出し、それがどう一つの流れとしてつながっているのかを見ていきます。
参考文献
Kim, J., Pignatelli, M., Xu, S., Itohara, S., & Tonegawa, S. (2016). Antagonistic negative and positive neurons of the basolateral amygdala. Nature Neuroscience, 19(12), 1636-1646.
Zhang, X., Kim, J., & Tonegawa, S. (2020). Basolateral amygdala neurons mediate the recall of taste valence between rewarding and aversive experiences. Neuron.
Lim, B. K., et al. (2024). Molecular and functional diversity of amygdala neurons. Nature Communications.