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【山中裕の経済学サロン】薬で"損の痛み"は下げられるか――プロプラノロールと損失回避

前回は前頭前野による損失回避の「書き換え」を見ました。今回は同じ効果を薬理学的に起こす話です
皆さん、こんにちは。前回、前頭前野による認知的な再評価が、扁桃体からの損失の罰信号を書き換え、損失回避の強さを弱めるという話をしました。今回はこれと対になる話として、プロプラノロールという薬が、同じような効果を薬理学的に引き起こすという研究をご紹介します。
プロプラノロールとは何か
プロプラノロールは、非選択的なβ遮断薬です。末梢の交感神経を抑える薬として、高血圧や不整脈の治療によく使われています。脂溶性が高く、血液脳関門を越えて脳内にも入り込むため、脳内のβアドレナリン受容体も遮断します。損失回避の話とつながってくるのは、まさにこの中枢での作用です。
ノルアドレナリンやアドレナリンは、β1受容体(主に心臓に分布)とβ2受容体(気管支や血管の平滑筋、そして脳内にも分布)に結合して細胞を興奮させます。プロプラノロールはこの両方を競合的にふさぎます。アテノロールのような水溶性のβ遮断薬に比べて、中枢神経系に入りやすいのが特徴です。
末梢では心拍数の低下、心収縮力の低下、レニン分泌の抑制といった作用が現れます。脳内では、青斑核から伸びるノルアドレナリン系の投射先、とりわけ扁桃体の基底外側核でのβ信号が落ちることになります。
扁桃体でどう作用するか
情動が高まると、ノルアドレナリンが扁桃体基底外側核のβ受容体を刺激し、扁桃体の反応性を高めます。これが、恐怖を示す表情などへの扁桃体の発火、情動記憶を固定・再固定するために必要なタンパク質合成、そして損失に対する「罰」の信号を増幅させます。
ヒトを対象にしたfMRI研究では、プロプラノロール40mgを単回投与すると、扁桃体基底外側核が恐怖の表情に対して示す反応が、刺激の内容にかかわらず縮小することが確認されています。一方で視覚野の活動は変化しません。薬が標的にしているのは、あくまで扁桃体側だということです。
動物実験では、扁桃体基底外側核へβ遮断薬を直接注入すると、嫌悪記憶の固定が妨げられることが分かっています。全身に投与した場合でも、記憶を想起した直後――再固定が起きる時間の窓――に与えると、恐怖記憶の再安定化が弱まります。PTSDの治療研究が狙っているのは、まさにこの時間の窓です。
損失回避への選択的な作用
Sokol-Hessnerらが2015年に『Psychological Science』誌に発表した研究は、前回ご紹介した認知的な再評価の研究の、いわば薬理学版にあたります。
二重盲検・プラセボ対照の試験でプロプラノロールを服用してもらい、混合ギャンブルでの選択をプロスペクト理論のモデルで分解すると、損失回避の強さを表すλだけが下がり、リスクに対する態度そのもの、つまり効用の曲率は変わらず、選択のばらつき(判断の一貫性)も変わりませんでした。さらに、もともとλが高い人ほど、また体重あたりの薬の用量が効いている人ほど、低下の幅が大きいことも分かりました。これは、覚醒を担うノルアドレナリンの働きが、損失回避に対して因果的に効いていることを示す結果です。
仕組みとしてはこう理解できます。見込まれる損失に対して、扁桃体がノルアドレナリンに依存する形で罰の信号を出します。この信号が皮膚電気反応として現れる生理的な覚醒と、行動上のλの両方を押し上げます。β遮断薬によってこの罰信号の増幅そのものが弱まると、線条体や腹内側前頭前野といった価値の計算回路への上乗せが減り、損失が利得に近い重みで扱われるようになる、という流れです。
前回見た前頭前野による再評価が「枠組みを書き換える」働きだとすれば、プロプラノロールは、その枠組みの下にある覚醒による増幅そのものを、物理的に弱める働きだと言えます。だからこそ、リスクへの好み自体や、判断の丁寧さそのものは変化しないのです。
記憶との関わり
情動は、海馬における記憶の固定を、いわば蛍光ペンで強調するように働きます。この強調作用も、β受容体に依存しています。だからプロプラノロールは、情動的な物語の記憶は弱めますが、中立的な物語の記憶にはあまり影響しないという、CahillやMcGaughらによる古典的な知見と符合します。損失回避もまた、「この損失は生存に関わる脅威だ」という強調が削られることで弱まる現象として、同じ枠組みで理解できます。
ただし、記憶の再固定を妨げる効果が現れる条件は限定的です。薬が中枢に届くこと、記憶を想起した直後という時間の窓に当たること、そしてその後の睡眠を含む十分な時間が経ってからテストすること――これらの条件がそろって初めて、恐怖の表出が弱まりやすくなります。日常的な服用量で、過去のトラウマがすぐに消えるといった話ではありません。
末梢と中枢、どちらが効いているか
心臓のβ1受容体を止めると、動悸という身体からのフィードバック、いわゆる内受容感覚も弱まります。損失回避の強さは、心拍の知覚の鋭さと相関するという報告もあるため、脳内でのβ遮断と、身体からの信号の減弱の両方が寄与している可能性があります。ただし、血液脳関門を越えにくいβ遮断薬では、恐怖記憶の再固定を妨げる効果が弱いという知見があり、損失回避についても中枢での作用が主だと考えられています。
使われる場面と、はっきりさせておくべき限界
プロプラノロールは臨床の現場では、高血圧、不整脈、狭心症、片頭痛の予防、本態性振戦、あがり症、乳児血管腫など、幅広い場面で使われています。研究の場では、情動記憶や損失回避の研究、そしてPTSDに対する再固定阻害の介入という文脈で用いられています。
ここではっきりさせておきたい注意点がいくつかあります。喘息のある人にはβ2遮断が危険です。低血糖の症状を隠してしまうことがあります。脂溶性であるがゆえに、頭に霧がかかったような感覚や、夢が鮮明になるといった中枢性の副作用が出ることもあります。そして何より、λを下げることが、必ずしも良いリスクテイクにつながるとは限りません。学習を伴う課題ではかえって成績が落ちるという報告もあります。日常的に服用したからといって「合理的な投資家になる薬」というものではなく、効果は用量や、もともとのλの高さ、そして文脈に強く依存します。
ガバナンスへの含意――薬ではなく、仕組みで
私がこの一連の研究から受け取るべきだと思うのは、「損失回避を薬で下げよう」という話ではありません。むしろ逆です。損失に対する判断が、ノルアドレナリンの働き一つでこれほど左右されうるのだとすれば、睡眠不足や強いストレス、時間的な圧力のもとで下された経営判断や投資判断を、そのまま個人の意思の力の産物として扱うこと自体に無理があるということです。
前回申し上げた通り、必要なのは個人の生理状態に判断の質を委ねることではなく、参照点を外側から繰り返し正すための仕組みです。重要な意思決定を、極度の疲労やプレッシャーの下で単独の経営者に委ねない体制、複数の目でリスクとリターンを期待値ベースで見直す機会を制度として組み込むこと。神経科学が教えてくれるのは、そうした仕組みの必要性を、精神論ではなく生理学の言葉で裏付けてくれる、ということなのだと思います。
参考文献
Sokol-Hessner, P., Lackovic, S. F., Tobe, R. H., Camerer, C. F., Leventhal, B. L., & Phelps, E. A. (2015). Determinants of propranolol's selective effect on loss aversion. Psychological Science, 26(7), 1123-1130.
Cahill, L., & McGaugh, J. L. (1998). Mechanisms of emotional arousal and lasting declarative memory. Trends in Neurosciences, 21(7), 294-299.
マイケル・ルイス『後悔の経済学』渡会圭子訳、文春文庫