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歴史は現代の経済格差をどこまで決めるのか――メリッサ・デルが切り開いた制度経済学とAI研究

数百年前の植民地支配や戦争は、現代の経済発展にどこまで影響するのか。貧困や地域間格差を理解するには、現在の政策や市場環境だけでなく、過去に形成された制度にも目を向ける必要がある。こうした歴史と現代経済の関係を、膨大な資料と統計分析によって研究してきたのが、米ハーバード大学の経済学者メリッサ・デル(Melissa Dell)である。
デルは2020年、40歳未満の経済学者による優れた研究成果を評価するジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞した。米国経済学会は、歴史資料を用いた独創的なデータ構築と厳密な実証分析を高く評価している。デルの研究は、過去の制度と現在の経済状況の関連を示すだけでなく、なぜその影響が長期間続くのか、あるいは変化するのかを解明しようとしてきた点に特徴がある。
ペルーの強制労働制度が残した経済格差
デルの代表的な研究の一つが、2010年に『Econometrica』に掲載された「The Persistent Effects of Peru's Mining Mita」である。論文では、1573年から1812年にかけてペルーなどで行われた鉱山強制労働制度「ミタ」が、現代の地域経済に与えた影響を分析した。
研究では、かつてミタの対象だった地域と対象外だった地域の境界付近を比較し、対象地域では現代の家計消費が約25%低く、子どもの発育阻害の割合が約6ポイント高いと推定した。また、道路網への接続が弱く、自給的な農業に依存する割合も高かった。
デルは、こうした影響が長期間続いた背景として、土地所有制度や道路などの公共財、地域経済の構造に注目した。強制労働制度が廃止された後も、制度によって形成された経済的な条件が、その後の発展を左右した可能性を示したのである。
ただし、2025年にはレティシア・アロヨ・アバドとノエル・マウラーが、約500の先住民集落を対象とした研究で異なる結果を報告している。強制労働による深刻な歴史的被害は確認される一方、現代の地域間格差については、一貫した負の影響を示す統計的な結果が得られなかったという。
両研究は対象地域や分析方法が異なるため、デルの結論が完全に否定されたわけではない。歴史的な制度の影響がどの程度持続するのかは、現在も研究上の議論が続いている。
国家の統治制度は地域社会に何を残すのか
デルは、国家の統治制度が地域社会に与える長期的な影響についても研究している。2018年にネイサン・レーン、パブロ・ケルビンと発表した「The Historical State, Local Collective Action, and Economic Development in Vietnam」では、ベトナムで異なる統治制度を経験した地域を比較した。
歴史的にベトナム北部では、中央集権的な大越の統治のもとで村落を単位とする行政制度が発達した。一方、南部ではクメール帝国の影響を受け、異なる統治構造が存在していた。
研究では、大越の行政制度を長く経験した地域ほど、その後の経済状況が良好であり、住民による公共財の供給や地域内の協力も活発だったと報告している。
この結果は、制度が廃止・変更された後も、地域社会に根づいた協力の仕組みや行動様式が残り、経済活動に影響する可能性を示している。国家の統治能力を考える際には、法律や行政組織だけでなく、住民同士の協力関係にも注目する必要があるという研究である。
ベトナム戦争が示した軍事介入と国家建設の関係
2018年にパブロ・ケルビンと発表した「Nation Building Through Foreign Intervention: Evidence From Discontinuities in Military Strategies」では、ベトナム戦争における軍事戦略の違いが地域社会に与えた影響を分析した。
著者らは、軍事作戦の判断に使われた評価基準や軍の管轄区域の違いなどを利用し、似た条件の地域で異なる軍事対応が行われた場合の影響を比較した。
その結果、強い火力に依存した軍事戦略は、共産勢力の活動や支持を強める一方、地域の統治や非共産系の市民活動に悪影響を与えたと推定された。
軍事力を投入すれば必ず統治が安定するわけではない。デルらの研究は、国家建設において住民との関係や地域社会の制度が重要であることを示している。
ジャワ島の研究から見えた制度の複雑な影響
デルの研究は、植民地制度の長期的な負の影響だけを扱っているわけではない。ベンジャミン・オルケンとの共同研究「The Development Effects of the Extractive Colonial Economy: The Dutch Cultivation System in Java」は、2020年に『The Review of Economic Studies』第87巻第1号、164~203ページに掲載された。
この論文では、19世紀のジャワ島でオランダが導入した強制栽培制度を分析した。当時、現地住民にはサトウキビ栽培などが課される一方、砂糖工場や加工設備、輸送網が整備された。
研究では、歴史的な砂糖工場に近い地域ほど、現代の産業活動が活発で、インフラや教育水準も良好だったことが確認された。搾取的な制度であっても、その制度のもとで形成された生産設備や経済組織が、後の地域経済に影響を残す場合があることを示している。
もっとも、これらの結果は強制栽培制度そのものを正当化するものではない。歴史的な制度を単純に良い制度と悪い制度に分類するのではなく、どのような経済構造が形成され、それがどのように受け継がれたのかを分析することが重要なのである。
AIによる歴史資料の分析が経済研究を変える
近年、デルは人工知能を利用した経済学の研究手法にも取り組んでいる。2025年には『Journal of Economic Literature』に「Deep Learning for Economists」を発表し、ディープラーニングを用いた大規模データ分析の方法を整理した。
論文では、文章や画像の分類、文書のデジタル化、人物や企業の記録の照合、大量の資料からの情報抽出などが取り上げられている。
経済史の研究では、古い新聞や行政文書、企業記録などを収集し、分析できる形式に整理するため、多くの時間と労力が必要だった。AIを利用すれば、従来は十分に活用できなかった大量の資料から、経済活動や制度の変化を調べるためのデータを構築できる可能性がある。
一方、AIが読み取った情報には誤りが含まれる場合もある。データの精度を確認し、分析結果の信頼性を確保することは引き続き重要となる。
デルの研究は、歴史的な制度の影響を検証するだけでなく、その分析に必要な資料をどのようにデータ化するかという研究手法そのものにも広がっている。
制度の持続と変化をどう理解するか
デルの研究に共通しているのは、歴史的な制度や出来事が現代の経済発展に影響する経路を、具体的なデータから明らかにしようとする姿勢である。2020年のクラーク賞受賞に際し、経済学者ダロン・アセモグルは、その独創的なデータ収集と厳密な実証分析が、政治経済学と経済史の研究を発展させたと評価した。
一方、歴史的な制度の長期的影響を分析する研究には、対象地域や比較方法によって結果が変わるという課題もある。ペルーのミタ制度をめぐる議論は、過去の出来事と現在の経済格差の因果関係を明らかにすることの難しさを示している。
また、個別の国や地域で確認された結果を、ほかの時代や社会にそのまま当てはめることもできない。歴史資料の精度や、分析結果をどこまで一般化できるかについては、継続的な検証が必要となる。
メリッサ・デルの経済学への貢献は、歴史的な制度や出来事が現代社会に及ぼす影響を、資料と統計分析によって具体的に検証してきたことにある。 AIを活用した新しいデータ構築への取り組みも含め、その研究は経済史と実証経済学の分析方法を広げている。
参考資料・関連論文
Melissa Dell (2010), “The Persistent Effects of Peru's Mining Mita,” Econometrica, Vol. 78, No. 6, pp. 1863–1903.
Melissa Dell, Nathan Lane and Pablo Querubin (2018), “The Historical State, Local Collective Action, and Economic Development in Vietnam,” Econometrica, Vol. 86, No. 6, pp. 2083–2121.
Melissa Dell and Pablo Querubin (2018), “Nation Building Through Foreign Intervention: Evidence From Discontinuities in Military Strategies,” The Quarterly Journal of Economics, Vol. 133, No. 2, pp. 701–764.
Melissa Dell and Benjamin A. Olken (2020), “The Development Effects of the Extractive Colonial Economy: The Dutch Cultivation System in Java,” The Review of Economic Studies, Vol. 87, No. 1, pp. 164–203.
Melissa Dell (2025), “Deep Learning for Economists,” Journal of Economic Literature, Vol. 63, No. 1, pp. 5–58.
Leticia Arroyo Abad and Noel Maurer (2025), “The Long Shadow of History? The Impact of Colonial Labor Institutions on Economic Development in Peru,” Journal of Economic Growth, Vol. 30, No. 4, pp. 521–565.
American Economic Association (2020), “Melissa Dell, Clark Medalist 2020.”
Daron Acemoglu (2021), “Melissa Dell: Winner of the 2020 Clark Medal,” Journal of Economic Perspectives, Vol. 35, No. 1, pp. 231–248.