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【山中裕の経済学サロン】損を数字に翻訳し直す――前頭前野による損失回避の書き換え

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前回、前頭前野が扁桃体の罰信号を書き換える調整弁だという話をしました。今回はその中身を掘り下げます

皆さん、こんにちは。前回、損失回避の神経メカニズムを三層構造でご紹介したとき、背外側前頭前野が「再評価」を担い、扁桃体からの罰信号を書き換える役割を持つ、という話をしました。今回はこの再評価という仕組みを、もう一歩踏み込んで見ていきたいと思います。

前頭前野は、損失回避を「消す」のではない

まず押さえておきたいのは、前頭前野は損失回避という反応そのものを消し去っているわけではない、ということです。行っているのは、扁桃体が出した「損の罰信号」を書き換え、価値計算の傾き――損失回避の強さを表す係数λ――を下げるという作業です。中心にあるのは認知的再評価(リアプレイザル)と呼ばれるプロセスで、鍵になる研究はSokol-Hessner、Camerer、Phelpsらによる2009年と2013年の論文です。

実験で何が起きるか

被験者に、当たれば得をし外れれば損をする混合ギャンブルを見せます。条件は二つ用意されています。一つは「Attend」条件で、いま目の前にあるこの賭けの損得をそのまま感じてもらいます。もう一つは「Regulate」条件で、「トレーダーのように考えてください。一回の損得ではなく、何度も繰り返したときの期待値で見てください」と教示します。

Regulate条件では、行動として現れる損失回避が下がります。皮膚電気反応、つまり生理的な覚醒の指標も、損失に対してだけ小さくなり、利得に対する反応はあまり変わりません。つまりこの抑制は選択的で、損失に伴う情動的な増幅だけを削っているのです。

fMRIで見ると、このとき複数のことが同時に起きています。右の背外側前頭前野(dlPFC)のベースライン活動が上がり、腹内側前頭前野(vmPFC)のベースライン活動も上がり、線条体のベースライン活動も上がります。一方で、扁桃体の「損>得」という偏った反応は縮小し、その縮小幅が大きい人ほど、λの低下も大きいという対応関係が見られます。dlPFCが戦略を起動し、vmPFCが価値を再計算し、その結果として扁桃体の出力が落ちる、という一連の流れです。これは恐怖刺激を再評価するときの回路と、ほぼ同じ配線だと考えられています。

それぞれの領域の役割分担

背外側前頭前野は、いわば外側・冷たい制御の担当です。視点を切り替えるための作業記憶とルールの維持を担い、「この100円の損失は、ポートフォリオ全体から見ればノイズにすぎない」というふうにラベルを付け替えます。ここがうまく働かないと、再評価は口先だけのものに終わってしまいます。

腹外側前頭前野は、情動的なラベルの抑制と選択を担当します。「損」という自動的に貼られるタグを抑え、別の意味づけを選び取る役割です。

腹内側前頭前野、そして内側の眼窩前頭皮質は、いわば熱い価値の再計算の場です。dlPFCが用意した新しい枠組みを、実際の主観的な価値へと落とし込みます。期待値というフレームに切り替わると、同じマイナス100という神経上の価値でも、その沈み込みが浅くなる。損傷研究では、扁桃体の損傷がλそのものを潰してしまうのに対して、vmPFCの損傷は効用の曲率、つまり感応度逓減の側を崩しやすいという違いが確認されており、この二つの領域は役割が異なることが分かります。vmPFCは抑制そのものというより、新しい物差しを実装する側だと言えます。

線条体は、再評価が働いたあとの段階です。損失側の反応低下が緩やかになり、賭け全体の正味価値が通りやすくなる、いわば「手が出る」段階を担っています。

一連の回路として描くと

見込まれる損失に対して、まず扁桃体と島皮質が罰の信号を出します。次に背外側前頭前野が「枠組みを変えろ」と指令を出します。腹内側前頭前野が、参照点を「この一回の損失」から「一連の取引全体の期待値」へと移し替えます。内側の前頭前野から扁桃体へは、解剖学的にも太いトップダウンの経路があり、これが扁桃体を抑制します。そして線条体での正味の価値評価がプラス側に寄り、受容される確率が上がります。

抑制の実体は、扁桃体を静かにさせることと、参照点そのものを動かすことの、両方が合わさったものであり、どちらか一方だけでは成立しません。

薬理・脳刺激からの裏付け

プロプラノロールというβ遮断薬――ノルアドレナリンの作用を弱める薬――は、損失回避を選択的に下げることが分かっています。これはdlPFC経路による「冷静化」と同じ方向の効果であり、脅威に対する感度そのものを下げていると解釈できます。

また、腹内側前頭前野に興奮性の刺激を与えると、損失の確率が高いときの無謀な追求と、利得の確率が高いときの過剰な回避の、両方が減り、選択が期待値に近づくという報告もあります。前頭前野は「リスクを取れ」と背中を押す側ではなく、フレームに引きずられて歪んだλを、正規化する側だということです。

効く再評価、効きにくい再評価

すべての「気の持ちよう」が同じように効くわけではありません。効きやすいのは、「これは一回の損得ではなく、何度も繰り返したときの期待値だ」という捉え方、「これは損失ではなく手数料や保険料、あるいは実験の一部だ」という捉え方、そして「売らずに持ち続けること自体も機会損失であり、参照点を買値ではなくいまの市場価格に置き直す」という捉え方です。

逆に効きにくいのは、「損をするなと自分に命じる」というやり方です。これはdlPFCを使ってはいますが、価値そのものは書き換えておらず、むしろ島皮質が余計に活動してしまうことすらあります。また、時間的な圧力や恐怖、睡眠不足の状態でも効きにくくなります。ノルアドレナリンが先に扁桃体を活性化させてしまい、前頭前野の介入が間に合わないためです。

だから現場で有効なのは、「損を感じるな」と自分に言い聞かせることではなく、「この損失をどの口座で、どの時間の窓で見るか」をあらかじめ決めておくことです。この方が、前頭前野が得意とする作業のかたちに合っています。

再評価には限界がある

再評価によってλが1まで下がり切ることはありません。扁桃体そのものを損傷した場合ほどの効果はないのです。また、単に表情に出さないようにするといった習慣的な抑制は、外側の前頭前野を使ってはいますが、損失回避そのものはあまり下がらないことがあります。制御できているように見えても、内側の価値は元のままだという状態です。

つまり、前頭前野による損失回避の抑制とは、損失の計算そのものを止めることではなく、損失を「脅威」から「統計量」へと翻訳し直す作業なのです。この翻訳がうまくいった分だけ、扁桃体からの罰は小さくなり、プロスペクト理論のλは1へと近づいていきます。

私たちが企業のガバナンスの話をするとき、「損失を確定させたくない」という経営陣の心理を、単なる甘さや保身として片付けてしまいがちです。しかしここまで見てきたように、それは脳に組み込まれた翻訳の失敗という側面を持っています。だからこそ、社外取締役や第三者委員会が果たすべき役割は、経営陣を責めることよりも、「これは一回の損ではなく、事業ポートフォリオ全体の期待値の話だ」という枠組みを、外側から繰り返し提示し続けることにあるのだと思います。


参考文献

  • Sokol-Hessner, P., Hsu, M., Curley, N. G., Delgado, M. R., Camerer, C. F., & Phelps, E. A. (2009). Thinking like a trader selectively reduces individuals' loss aversion. PNAS, 106(13), 5035-5040.

  • Sokol-Hessner, P., Camerer, C. F., & Phelps, E. A. (2013). Emotion regulation reduces loss aversion and decreases amygdala responses to losses. Social Cognitive and Affective Neuroscience, 8(3), 341-350.

  • マイケル・ルイス『後悔の経済学』渡会圭子訳、文春文庫