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【山中裕の経済学サロン】損の痛みは、脳のどこで生まれるのか――損失回避の神経科学

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前々回はカーネマンとトベルスキーの物語を、前回はプロスペクト理論を七つの場面で見ました。今回はその奥にある脳のメカニズムに踏み込みます

皆さん、こんにちは。前回、プロスペクト理論の核として「損失回避――同じ金額でも、損の痛みは得の喜びより約2倍重い」という話をしました。行動としてはよく確認されているこの現象ですが、では脳の中では、実際に何が起きているのでしょうか。今回は最新の神経科学の知見を頼りに、損失回避のメカニズムを整理してみたいと思います。

一つの中枢ではなく、三層の重なり

結論から言うと、損失回避は「脳のどこか一箇所が損を2倍に感じている」という単純な話ではありません。行動上の係数、専門的にはλ(ラムダ)と呼ばれ、だいたい2前後の値を取るこの非対称は、少なくとも三つの層が重なって現れます。

第一に、同一の価値計算回路が、損失に対してより急に反応が沈み込むこと。第二に、扁桃体と島皮質が、見込まれる損失に対して情動的な罰の信号を上乗せすること。第三に、前頭前野がこれらを統合し、最終的に「拒否する」「回避する」という行動として出力すること。以前は損失専用の中枢があるという単純な説もありましたが、いまではほぼ支持されていません。

腹側線条体とvmPFC――同じ物差しの傾きが違う

出発点になったのは、Tom、Fox、Trepel、Poldrackらが2007年に『Science』誌に発表した研究です。当たれば得をし、外れれば損をするという混合ギャンブルを被験者に見せると、見込みの利得が大きいほど腹側線条体(VS)と腹内側前頭前野(vmPFC)の活動が上がり、見込みの損失が大きいほど、同じ領域の活動が下がることが分かりました。

ここで重要なのは、下がり方が上がり方より急な人ほど、実際の行動でも損失回避が強いという対応関係です。これを神経的損失回避と呼びます。利得用の回路と損失用の回路が別々に存在するというより、一本の価値のコードが、損失側でより敏感に反応している、という描像です。ドーパミン系は「予測よりも良かったか悪かったか」を符号化するので、同じ大きさのずれであっても、マイナス方向への勾配が急であれば、選択そのものが損失回避的になります。

扁桃体――損失に「罰」を乗せる回路

決定的だったのは、De Martinoらによる2010年の研究です。両側の扁桃体を損傷した患者では、金銭ギャンブルにおける損失回避がほぼ消えてしまいます。損得をほぼ同等に扱うようになり、λはおよそ1前後まで下がります。健常者ではλは1.5から1.8程度です。

解釈はこうです。扁桃体そのものが価値を計算しているわけではありません。見込まれる損失に対して情動的なペナルティ、つまり回避のための信号を発し、それを線条体や眼窩前頭皮質へと送っている。このブレーキが切れてしまうと、「損をしそうだ」と分かっていても、手が止まらなくなるのです。

Canessaらによる2013年の健常者を対象としたfMRI研究では、扁桃体と後部島皮質が、見込まれる損失の大きさに比例して活動することが示されました。さらに、扁桃体・視床・線条体の灰白質量が、個人ごとのλの値と関連していることも報告されています。回避行動の出力核である中心内側核の体積が大きい人ほど、かえって金銭的な成績が悪くなる、という指摘もあります。回避が強すぎると、本来は取るべき「得な賭け」まで拒んでしまう、ということです。

進化的に見れば、これは恐怖条件付けと同じ回路が使われています。身体的な危害を避けるための装置が、財布の中の数字にもそのまま転用されている、と見るのが自然でしょう。

島皮質――「払いたくない」という嫌悪の感覚

前部島皮質は、痛み、吐き気、不公平感、保険料の支払いなど、「身体的に嫌だ」という感覚のハブとして知られています。損失を予期したときにここが活動するのは、金額を冷静に計算しているというより、損をすることそのものを身体的な脅威として感じている状態に近いといえます。

「100円を失う」ことと「100円を払って何かを買う」ことでは、客観的な資産の減少はまったく同じなのに、主観的な感じ方が違います。前者は扁桃体と島皮質による脅威のフレームが働き、後者は交換のフレームとして前頭前野の比重が上がる。同じ数字でも、脳の中を通る経路が違うのです。

前頭前野――統合と、書き換え

腹内側前頭前野と眼窩前頭皮質は、利得と損失をひとつの主観的な価値にまとめ上げる働きを持ちます。ここが損傷すると、感応度逓減、つまり効用の曲線の曲がり方そのものが崩れるという報告があり、扁桃体の損傷がλを潰すのとは、役割が異なることが分かります。

一方、背外側前頭前野は再評価を担います。「これは損失ではなく手数料だ」というふうに枠組みを付け替えると、損失回避が弱まる。感情のコントロールによってλが下がるという現象の、皮質側の仕組みです。つまり前頭前野は、扁桃体からの罰信号をそのまま通すか、それとも書き換えるかを決める調整弁の役割を果たしています。

損の計算は、長く尾を引く

2023年に発表されたMEGを用いた研究では、利得の評価にかかる時間は、損失回避の強い人でも弱い人でもあまり変わらないことが示されました。違うのは損失の評価が終わるタイミングで、λが高い人ほど、損失の処理が長く尾を引きます。同時に提示された得と損が脳内の処理資源を奪い合うとき、最終的に損の方が処理を占有して勝ち残る、という動的な描像です。

さらに、恐れの表情を先に見せると損失回避が強まり、扁桃体などの符号化のしかたが「活動が下がることで損を表す」から「活動が上がることで損を表す」方向へ寄る、という文脈依存性も報告されています。脅威を感じるモードに入ると、損失専用のチャンネルが前面に出てくる、ということです。

伝達物質――ノルアドレナリンとドーパミン

Sokol-HessnerとRutledgeによる2019年の整理によれば、ノルアドレナリンは覚醒・脅威・損失回避に寄与しやすく、ドーパミンは利得を求めるリスクテイクの側に寄与しやすいとされています。薬理学的に完全に切り分けられるほど単純ではありませんが、「損の重みづけ」と「当たりを取りに行く勢い」は、同じ報酬系の裏表という単純な関係ではない、という指摘は重要です。

プロスペクト理論との対応

ここまでの知見を、前回整理したプロスペクト理論の四つの核と対応させると、次のようになります。参照点は、腹内側前頭前野がいまの状態を価値ゼロの近傍に置くことに対応します。損失回避の係数λは、線条体と腹内側前頭前野の損失側での急な反応低下に、扁桃体と島皮質からの罰信号が上乗せされたものに対応します。感応度逓減は、腹内側前頭前野と眼窩前頭皮質による価値の符号化そのものの圧縮に対応します。確率の歪みだけは、島皮質や前帯状皮質など別系統が関わっており、損失回避そのものとは切り分けて考える必要があります。

実務とガバナンスへの含意

損失回避は性格の問題というより、脅威を検出する回路が、本来は冷静であるべき価値計算に漏れ込んでいる結果だと言えます。だからこそ、損失を「確定した失敗」というラベルで捉えると扁桃体が強く活動し、「手数料」や「必要なコスト」として再ラベルすると、前頭前野による再評価が働きやすくなる。睡眠不足や恐怖、時間的なプレッシャーは、ノルアドレナリンを介してλを押し上げやすくします。

投資で含み損を確定できない、増税というフレームが給付金というフレームより強く嫌われる――こうした現象の底には、この非対称な神経回路があります。前回お話しした、政策保有株式を買値割れのまま抱え続ける経営判断も、突き詰めれば同じ回路の産物です。損失を「失敗の確定」としてラベルしたままにするか、それとも「機会コストの精算」として再評価する仕組みを外部から与えるか。社外取締役や第三者による監視が果たしうる役割の一つは、まさにこの再評価を経営陣の外側から促すことにあるのだと思います。

カーネマンとトベルスキーが行動として見出した歪みは、脳の中では「損失の信号が、利得の信号よりも急で、長く尾を引き、情動の罰を伴う」という形で実装されています。次回はこの続きとして、確率の歪みの神経基盤について見ていきたいと思います。


参考文献

  • Tom, S. M., Fox, C. R., Trepel, C., & Poldrack, R. A. (2007). The neural basis of loss aversion in decision-making under risk. Science, 315(5811), 515-518.

  • De Martino, B., Camerer, C. F., & Adolphs, R. (2010). Amygdala damage eliminates monetary loss aversion. PNAS, 107(8), 3788-3792.

  • Canessa, N., et al. (2013). The functional and structural neural basis of individual differences in loss aversion. Journal of Neuroscience, 33(36), 14307-14317.

  • Sokol-Hessner, P., & Rutledge, R. B. (2019). The psychological and neural basis of loss aversion. Current Directions in Psychological Science, 28(1), 20-27.

  • マイケル・ルイス『後悔の経済学』渡会圭子訳、文春文庫