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【山中裕の経済学サロン】賢い人ほど、自分の頭を信用してはいけない――カーネマンとトベルスキーが暴いた「合理性」の幻想

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マイケル・ルイス『後悔の経済学』が描く、二人の天才の友情と、経営判断という名の過信について

皆さん、こんにちは。今回の経済学サロンでは、マイケル・ルイスのノンフィクション『後悔の経済学』(原題:The Undoing Project、文春文庫、渡会圭子訳)を取り上げたいと思います。

この本は教科書ではありません。数式の解説書でもありません。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーという二人の心理学者の、出会いから共同研究、決裂に近い緊張、そしてエイモスの早すぎる死までを描いた、人物ドラマです。行動経済学の入口として読むこともできますが、私がこの本から受け取った本当のメッセージは、理論そのものよりも「世界を変えた苦い友情」の方にありました。

正反対の二人

カーネマンはホロコーストを逃れた内省的な心理学者で、疑り深く、自分自身の直観すら信用しません。一方のトベルスキーはイスラエルの俊英で、明晰・機知・自信に満ち、議論そのものを楽しむタイプでした。この正反対の二人がエルサレムで出会い、互いの欠陥を補い合うように研究を始めます。

ルイスの筆致は、代表作『マネーボール』と同じです。現場の「当たり前」を疑う人間が、データと観察によって通説を壊していく。カーネマンとトベルスキーが壊したのは、当時の経済学が前提としていた「人は合理的に期待効用を最大化する」という考え方そのものでした。

三つの発見

二人の発見は、大きく三つの柱にまとめられます。

一つ目は、ヒューリスティクスとバイアスです。人は確率や頻度を正確に計算せず、代表性(いかにも典型例に見えるか)、利用可能性(思い出しやすいかどうか)、係留(最初に提示された数字に引きずられること)といった簡便な手がかりで判断します。これは医者の診断でも、パイロットの操縦でも、採用面接でも、そして投資判断でも、同じように顔を出します。

二つ目は、プロスペクト理論です。人は資産の絶対額ではなく、ある参照点からの「得」と「損」で物事を判断します。そして損失は、同じ額の利得よりも強く痛む。これを損失回避と呼びます。確実な利益は手堅く確保したがる一方で、損失を抱えると、それを取り戻そうとしてギャンブル的な選択に傾く。この傾向は、保険の選び方から株式投資、政策決定、果ては戦争の判断にまでつながっていきます。

三つ目は、タイトルにもなっている「取り消し(undoing)」です。不幸が起きたあと、人は「あの分岐さえなければ」と、頭の中で現実をほどいて別の展開を思い描きます。後悔という感情は、実際に起きたことそのものからではなく、想像しやすい「もう一つの結末」との落差から生まれる。これが本書の核心にある、もっとも苦い発見です。

賢い人ほど、自分を過信する

二人は論文を一文ずつ一緒に書き、どちらが第一著者かを争うほど一体化していました。しかしスタンフォードやプリンストンへと移り、名声が広がるにつれて、評価の分配と性格の差がきしみ始めます。エイモスは1996年に若くして亡くなり、カーネマンは後年、ノーベル経済学賞を受賞しました。この受賞は、二人の共同の仕事に対して贈られたものです。

私がこの本から一番強く受け取ったのは、経済学の入門的な知識というよりも、「賢い人ほど、自分の頭を過信する」という警告でした。後悔は計算の失敗から生まれるのではなく、頭が別の物語を勝手に作ってしまうことから生まれる。これは、経済学者やファンドマネージャーだけの話ではありません。企業の経営者にも、そのまま当てはまります。

日本のガバナンスへの接続

日本の古いコーポレート・ガバナンスの慣行を変えようとしている私にとって、この本はひとごとではありませんでした。

低PBRのまま放置される事業、含み損を抱えたまま塩漬けにされる政策保有株式、失敗が明らかになってもなお撤退できない事業計画――これらはすべて、損失回避と現状維持バイアスという、カーネマンとトベルスキーが実証したのと同じ認知の歪みで説明がつきます。経営者は、損失を確定させるくらいなら、リスクを取ってでも取り戻そうとする。あるいは、損失そのものを直視せず、含み損のまま先送りする。どちらも、企業価値の観点からは非合理な選択です。

そして厄介なのは、こうした判断がしばしば「経営判断」という言葉に守られてしまうことです。経営判断の原則のもとでは、結果として誤っていた判断であっても、プロセスに著しい不合理がなければ、取締役の責任は問われにくい。しかし行動経済学が教えるのは、優秀で自信に満ちた経営者ほど、自分の直観を過信し、認知の歪みに気づかないまま重要な意思決定を下しているかもしれない、という事実です。「賢い人ほど自分の頭を過信する」という本書の警告は、まさにここに刺さります。

だからこそ、社外取締役や物言う株主、そして司法による外部からのチェックが要る。経営者の直観を無条件に信頼するのではなく、データと第三者の視点によって、その直観がどこかで歪んでいないかを問い続ける仕組みが必要です。これは経営者への不信ではなく、人間の認知そのものが持つ限界への、当たり前の備えなのだと思います。

理論を厳密に学びたい方には、カーネマン本人の『ファスト&スロー』の方が本筋です。ですが、二人の人物と発見に至る経緯を一冊でつかみたいなら、この『後悔の経済学』が一番読みやすい入口になるはずです。


参考文献

  • マイケル・ルイス『後悔の経済学』渡会圭子訳、文春文庫

  • Michael Lewis, The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

  • ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(村井章子訳、早川書房)