値付けの誤りは心理から生まれる――『かくて行動経済学は生まれり』を読む 序章「見落としていた物語」

市場はなぜ、ときに明らかな値付けの誤りを長く放置するのか。
効率的な市場では、割安な資産はすぐに買われ、価格は本来の水準へ戻るはずである。しかし現実には、多くの参加者が同じ方向に誤り、その誤りが修正されないまま残ることがある。この現象の背後に人間の心理の構造があることを、物語の形で描いたのが、マイケル・ルイスの『かくて行動経済学は生まれり』(渡会圭子訳、文藝春秋、2017年)である。
本稿から全14回にわたり、同書を章ごとに検討する。各回では、原著の記述と、筆者による研究の整理・評価とを区別して論じる。検討の軸は二つある。一つは、ゲーリー・ベッカーに代表される合理的選択理論と、カーネマンとトヴェルスキーの研究との対立である。もう一つは、市場価格の存在しない非上場株式において、少数株主の権利と「公正な価格」がどのように守られるべきかという問題である。
問題の所在――市場の非効率はどこから来るのか
経済学には、市場の非効率を説明する方法がいくつかある。情報が当事者の一方に偏っている場合、取引に費用がかかる場合、競争が十分でない場合などである。いずれも、人間は合理的に判断するが、置かれた環境に制約がある、という説明である。
これに対し、同書が描くのは、別の種類の説明である。環境に制約がなくても、人間の判断そのものが系統的に偏っていれば、市場は歪む。そしてその偏りは、専門家であっても免れない。
この視点は、取引の頻度が低く、価格情報が乏しい市場ほど重要になる。非上場株式は、その典型である。
原著の記述――ルイスが「見落としていた」もの
序章でルイスが振り返るのは、自身の前作『マネーボール』(2003年)の反響である。
同作は、年俸総額の小さい米大リーグ球団オークランド・アスレチックスが、統計分析によって過小評価された選手を見つけ出し、資金力のある球団に対抗した経緯を描いた。選手の評価を担っていたのは、長年の経験を持つスカウトたちだった。しかし彼らの評価は、体格や印象といった目に見える特徴に引きずられ、勝利への実際の貢献を正しく反映していなかった。
序章によれば、同作の刊行後、データを用いた意思決定はスポーツ以外の分野にも広がる一方、専門家の側の抵抗も続いた。データ分析で成功を収めたボストン・レッドソックスが、のちに専門家の判断を重視する方針へ戻った例も紹介されている。
ルイスにとっての転機は、2003年に米誌『ニュー・リパブリック』に掲載された、シカゴ大学のリチャード・セイラーとキャス・サンスティーンによる書評だった。書評は同作を高く評価しながらも、一つの欠落を指摘した。スカウトの評価がなぜ誤るのか、その心理的な原因が説明されていない。そして、その原因はイスラエルの心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーが、すでに数十年前に解き明かしている、と。
ルイスは、二人の研究を知らなかったことを認めている。同書は、この欠落を埋めるために書かれた。序章の題名「見落としていた物語」は、そのことを指している。
研究の整理――二人の研究の三つの命題
原著を離れ、二人の研究を、本連載で繰り返し参照する三つの命題に整理しておく。
・第一に、人は不確実な状況で判断するとき、計算ではなく、少数の経験則に頼る(1974年『サイエンス』論文「不確実性下における判断」)
・第二に、その経験則は、特定の状況で、特定の方向の誤りを生む(代表性、利用可能性、アンカリングなど)
・第三に、リスクのある選択では、人は最終的な資産の大きさではなく、基準点からの損得で価値を判断し、損失を利得より重く評価する(1979年『エコノメトリカ』論文「プロスペクト理論」)
二人の研究は、2002年のカーネマンのノーベル経済学賞受賞につながった。トヴェルスキーは1996年に死去しており、受賞の対象とはならなかった。また、二人の研究を経済学に橋渡ししたセイラーは、2017年に同賞を受賞している。
評価――「限定合理性」との違いはどこにあるか
人間の合理性に限界があるという指摘自体は、二人の研究より前から存在した。1978年にノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンは、人間は情報処理の能力に限りがあるため、最善ではなく「満足できる」選択をするという「限定合理性」の考え方を示していた。
サイモンの議論と二人の研究の違いは、誤りの性質にある。サイモンが強調したのは、人間の合理性の「限界」であった。これに対し、カーネマンとトヴェルスキーが示したのは、誤りの「方向」が予測できるということだった。
この違いは、市場を考えるうえで本質的である。誤りの方向がばらばらであれば、多数の判断が集まることで誤りは相殺される。しかし、多くの人が同じ方向に誤るなら、相殺は起こらず、市場全体の価格が一方向に歪む。
ゲーリー・ベッカーらの合理的選択理論は、個人の誤りがあっても、競争と学習によって市場全体としては合理的な結果に近づくと考えてきた。二人の研究は、その前提が成り立たない条件を特定する道を開いたのである。
ただし、序章の段階では、判断の偏りがどの程度まで市場価格に影響するのかは論じられていない。裁定取引によって誤りが修正される可能性を含め、この論点は第9章以降を扱う回で検討する。
含意――価格を決めるのが「人」である市場
序章の議論を、非上場株式の問題に引き寄せて考える。
上場株式の価格は、無数の取引の結果として形成される。ある投資家が誤った評価をしても、別の投資家がその誤りを利用して取引すれば、価格は修正される。
非上場株式には、この修正の仕組みがない。株式の価値は、会社が依頼した評価人、相続税の評価基準、当事者間の交渉、そして争いになれば裁判所の判断によって決まる。いずれも、少数の人間の判断である。
二人の研究が正しいとすれば、こうした判断には、系統的な偏りが入り込む余地がある。たとえば、会社側の最初の提示額が交渉の出発点となり、その後の議論がその金額に引き寄せられる現象は、アンカリングとして説明できる。
この点から導かれる政策的な含意は明確である。市場による修正が働かない領域では、価格の妥当性を、価格の水準だけでなく、価格が決まる過程によって担保する必要がある。評価の前提の開示、利害関係のない第三者の関与、少数株主が評価に異議を述べる機会の確保が、市場の規律の代わりを果たさなければならない。
本連載の構成
本連載は、原著の章立てに沿って、以下の順に検討を進める。
・序章「見落としていた物語」――値付けの誤りは心理から生まれる
・第1章「専門家はなぜ判断を誤るのか?」――データ分析はスカウトの偏りを消せるか
・第2章「ダニエル・カーネマンは信用しない」――自分の直感を疑う心理学者の誕生
・第3章「エイモス・トヴェルスキーは発見する」――合理性の公理を検証した研究者
・第4章「無意識の世界を可視化する」――知覚の研究から判断の研究へ
・第5章「直感は間違える」――専門家も小さな標本を信じすぎる
・第6章「脳は記憶にだまされる」――思い出しやすさと確率の判断
・第7章「人はストーリーを求める」――予測と後知恵の心理
・第8章「まず医療の現場が注目した」――医療判断と手続きの設計
・第9章「そして経済学も」――期待効用理論の揺らぎ
・第10章「説明のしかたで選択は変わる」――プロスペクト理論とフレーミング
・第11章「終わりの始まり」――共同研究と功績の配分
・第12章「最後の共同研究」――論争を事実の検証へ戻す方法
・終章「そして行動経済学は生まれた」――行動経済学の到達点と限界
次回は第1章を取り上げ、統計モデルを導入したNBA球団の事例から、データ分析が専門家の偏りをどこまで是正できるのかを検討する。
市場が価格を正せない場所では、手続きが価格の公正を担わなければならない。
※原著の記述に関する部分は、原著の目次、出版社による内容紹介、および公開されている序章の抜粋に基づく。
関連URL・参考資料
・マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、2017年7月)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163906836
・マイケル・ルイス「なぜ人間はバイアスを持つのか? 直感は間違え、専門家の判断は歪む」(現代ビジネス、2017年7月、序章の抜粋)
https://gendai.media/articles/-/52214
・Richard H. Thaler, Cass R. Sunstein「Who's On First」(The New Republic、2003年)
https://newrepublic.com/article/61123/whos-first
・Amos Tversky, Daniel Kahneman「Judgment under Uncertainty: Heuristics and Biases」(Science、1974年)
・Daniel Kahneman, Amos Tversky「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk」(Econometrica、1979年)
・Herbert A. Simon「A Behavioral Model of Rational Choice」(Quarterly Journal of Economics、1955年)
・Gary S. Becker「Crime and Punishment: An Economic Approach」(Journal of Political Economy、1968年)