基準点を設定する者が、選択を方向づける――『かくて行動経済学は生まれり』を読む 第10章「説明のしかたで選択は変わる」

同じ内容の選択肢でも、示し方が変われば、人の選択は変わる。
この命題は、いまでは広く知られている。しかし、その含意を制度の問題として考えると、別の問いが浮かび上がる。選択肢の示し方を決めるのは誰か。何を基準として示すのか、何を初期設定とするのかを決める者は、選択の結果に対して、目に見えない影響力を持つことになる。
同書の第10章は、カーネマンとトヴェルスキーの共同研究が最も実り豊かな時期を迎え、のちに経済学を大きく変えることになる理論が形づくられていく過程を描いている。本稿では、第10章の記述を確認したうえで、プロスペクト理論を法と制度の観点から読み直し、非上場株式の買取の場面で、基準点と初期設定が誰によって、どのように定められているかを検討する。
問題の所在――「中立的な示し方」は存在するか
制度や契約は、選択肢を何らかの形で示さざるをえない。どの価格を基準として示すか、何もしなかった場合にどうなるかを定めることは、避けることができない。
もし人の選択が示し方に左右されないなら、示し方の問題は形式的なものにすぎない。しかし、選択が示し方に左右されるなら、中立的に見える示し方であっても、それ自体が選択を一定の方向へ導く。示し方を決める権限は、実質的な影響力の源泉となる。
原著の記述――二人だけの部屋で生まれた理論
第10章は、二人の協働が最も生産的であった時期を描く。研究室の扉を閉ざし、二人だけで長い時間を議論に費やした日々である。二人の考えは、この時期、心理学の外、とりわけ経済学の分野でも注目を集めるようになっていた。
二人がこの時期に展開した考え方の一つが、「孤立効果」である。人は、リスクのある選択に直面すると、選択肢を取り巻く全体の文脈から切り離し、目の前の違いだけを取り出して判断しがちである。
研究はやがて「フレーミング」の問題へと広がっていく。原著は、状況の記述のしかたを変えるだけで、人々のリスクに対する態度が完全に逆転しうることを、二人の発見の核心として描いている。同じ結果を利益として示すか損失として示すかによって、人はリスクを避けることも、進んで引き受けることもある。こうした知見を統合したものが、プロスペクト理論であった。
一方で、原著はこの時期の二人の関係に、変化の兆しが生じていたことにも触れている。二人きりで完結していた協働の形を変えるべきかどうか。その問いをめぐって、カーネマンは相手に一つの「最後通告」を発することになる。その帰結は第11章で描かれる。
研究の整理――プロスペクト理論から「行動法と経済学」へ
以下では原著から離れ、プロスペクト理論とそれが法と制度の研究にもたらした影響を確認する。
・1979年、二人は『エコノメトリカ』に「プロスペクト理論」を発表した。人は結果を、最終的な資産の水準ではなく、ある基準点からの変化として評価し、損失を同じ大きさの利得よりも重く評価する。1981年には『サイエンス』で、選択肢の記述のしかたによって選好が逆転する「フレーミング効果」を示した。
・1988年、経済学者ウィリアム・サミュエルソンとリチャード・ゼックハウザーは、人が現状を変える選択肢よりも、現状を維持する選択肢を過度に好む「現状維持バイアス」を実証した。損失回避の考え方によれば、現状は基準点となり、そこからの変化は損失として重く感じられる。
・1996年、心理学者グレッチェン・チャップマンとブライアン・ボーンスタインは、模擬裁判の実験で、原告が請求する損害賠償の金額が高いほど、陪審員が認める賠償額も高くなることを示した。最初に示された金額が、判断の基準点として機能したのである。
・1998年、法学者ラッセル・コロブキンは、契約の任意規定(当事者が別段の定めをしなければ適用される規定)が、現状維持バイアスによって、当事者の選択に実質的な影響を及ぼすことを論じた(『コーネル・ロー・レビュー』)。同年、クリスティン・ジョルス、キャス・サンスティーン、リチャード・セイラーは、行動経済学の知見を法と経済学に体系的に取り入れる「行動法と経済学」の構想を示した(『スタンフォード・ロー・レビュー』)。
・2001年、ブリジット・マドリアンとデニス・シェイは、企業年金の加入を「申し出れば加入」から「申し出なければ加入」に変えただけで、加入率が大幅に上昇したことを示した。初期設定の力を示す代表的な実証研究である。
評価――示し方を決める権限の重み
これらの研究から導かれるのは、選択肢の示し方を決める権限が、実質的な影響力を伴うという認識である。
ゲーリー・ベッカーらの合理的選択理論では、選好は安定しており、選択肢の記述のしかたや初期設定によって変わらないと想定される。この想定のもとでは、任意規定や初期設定は、取引の手間を省くための技術的な仕組みにすぎない。
しかし、損失回避と現状維持バイアスを前提とすれば、初期設定は単なる出発点ではなく、そこからの離脱を心理的に困難にする基準点となる。最初に示される金額も、交渉や判断の基準点として、その後の結論を引き寄せる。
この点は、二つの方向の含意を持つ。一つは、示し方の設計によって、人々をより良い選択へ導くことができるという、いわゆる「ナッジ」の発想である。もう一つは、示し方を決める側が、自らに有利な方向へ相手の選択を導くことができるという、権限の濫用の危険である。後者は、示し方を決める者と選択する者の利害が対立する場面で、とりわけ深刻な問題となる。
もっとも、損失回避がどの程度の強さで現れるかについては、実験の条件によって結果がまちまちであり、その普遍性を疑問視する研究者もいる。プロスペクト理論は、あらゆる選択に一様に当てはまる法則としてではなく、選択の構造を分析するための枠組みとして用いるべきだろう。
含意――買取の場面で基準点を定めるのは誰か
非上場株式の買取の場面は、示し方を決める者と選択する者の利害が対立する典型である。
会社やその支配株主が少数株主から株式を買い取ろうとする場合、買取価格を最初に示すのは、多くの場合、会社の側である。その価格は、相続税の評価や会社が依頼した評価に基づいて示され、少数株主にとっての基準点となる。チャップマンとボーンスタインの研究が示すように、最初に示された金額は、その後の交渉や判断を引き寄せる。
また、買取の提案に期限が設けられ、期限までに応じなければ不利な扱いを受けるかのような示し方がされれば、少数株主は、応じないことを損失として感じやすくなる。逆に、提案に応じることが「何もしない」初期設定のように示されれば、現状維持バイアスは提案の受け入れを促す方向に働く。
示し方の権限が一方の当事者に偏っている以上、制度の側で、次のような手当てが求められる。
・買取価格を示す際に、採用した評価方法だけでなく、他の主要な評価方法による価格の範囲もあわせて示すこと
・提示額がどの基準に基づくのか、そしてその基準がどのような前提に立つのかを明示すること
・応じない場合に少数株主が取りうる選択肢(保有の継続、価格をめぐる申立てなど)とその手続きを、提案とあわせて中立的に説明すること
・会社側の評価とは独立した評価を、価格判断の基準として参照できるようにすること
示し方そのものをなくすことはできない。しかし、示し方の権限が一方に偏る場面では、その権限の行使を透明にし、複数の基準点を並べて示すことで、偏りを抑えることができる。
次回は第11章を取り上げ、二人の共同研究に生じた亀裂を手がかりに、共同で生み出した成果の評価と配分の問題を検討する。
中立的な示し方は存在しない。基準点を設定する権限が偏る場面でこそ、複数の基準を並べて示すことが求められる。
※原著の記述に関する部分は、原著の目次、出版社による内容紹介、公開されている書評・要約などに基づく。
関連URL・参考資料
・マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、2017年7月)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163906836
・SuperSummary「The Undoing Project: Chapter 10 Summary」
https://supersummary.com/the-undoing-project/chapter-10
・Daniel Kahneman, Amos Tversky「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk」(Econometrica、1979年)
・William Samuelson, Richard Zeckhauser「Status quo bias in decision making」(Journal of Risk and Uncertainty、1988年)
・Gretchen B. Chapman, Brian H. Bornstein「The more you ask for, the more you get: Anchoring in personal injury verdicts」(Applied Cognitive Psychology、1996年)
・Russell Korobkin「The Status Quo Bias and Contract Default Rules」(Cornell Law Review、1998年)
・Christine Jolls, Cass R. Sunstein, Richard Thaler「A Behavioral Approach to Law and Economics」(Stanford Law Review、1998年)
・Brigitte C. Madrian, Dennis F. Shea「The Power of Suggestion: Inertia in 401(k) Participation and Savings Behavior」(Quarterly Journal of Economics、2001年)