判断の偏りを前提に、制度を設計する――『かくて行動経済学は生まれり』を読む 終章「そして行動経済学は生まれた」

人間の判断は偏る。この命題そのものは、いまや目新しいものではない。
問われているのは、その先である。偏りが存在することを知ったうえで、私たちは制度をどのように設計すべきなのか。個人に注意を促すだけで足りるのか、それとも判断の手続きそのものを作り変える必要があるのか。
同書の終章は、カーネマンとトヴェルスキーの研究が、一つの学問分野として結実するまでの到達点を描いている。本稿では、本連載の最終回として、終章の位置づけを確認したうえで、二人の研究がその後の法と制度の研究にもたらした展開を整理し、本連載で検討してきた論点を、非上場株式の公正な価格をめぐる手続きの原則としてまとめる。
問題の所在――「偏りを知る」ことと「偏りを正す」こと
本連載で繰り返し確認してきたように、判断の偏りは、知っていても消えない。専門家であっても、偏りを自覚していても、直感は同じ方向に誤り続ける。
そうであれば、偏りへの対処は、個人の自覚や努力に委ねるだけでは不十分である。偏りが入り込む経路を特定し、その経路を手続きによって塞ぐこと。これが、二人の研究が制度に対して投げかけた、最も根本的な課題であった。
原著の記述――一つの学問分野が生まれるまで
終章の具体的な叙述について、本稿で参照できた資料は限られている。そこで、版元の紹介文が示す本書の骨格から、終章の位置を確認しておく。紹介文によれば、本書が追うのは、合理的な人間像を疑った二人の心理学者の研究が、医療と経済学へ波及し、最終的に新しい学問を生むまでの軌跡である。
この軌跡を、本連載の各回に即して振り返れば、次のようになる。軍の選抜制度と知覚の実験室から始まった問題関心は、1969年の衝突を経て共同研究となり、予測と確率判断の理論を経て、1979年には経済学の一流誌に理論として結実した。その間に、医療の現場が最初の受け手となり、続いて法学と経済学がこれを取り込んでいった。
本書の構成上、終章は序章と対をなしている。序章でルイスは、自身の前作が説明しきれなかった市場の歪みの根源を「見落としていた」と認めた。終章は、その空白が埋められた地点に読者を連れ戻す章といえる。
研究の整理――「偏りの発見」から「制度の設計」へ
以下では原著から離れ、二人の研究がその後の法と制度の研究にどのように展開したのかを確認する。
・学術的な評価:スウェーデン王立科学アカデミーは2002年、心理学研究の知見を経済学に取り込んだ功績を理由に、カーネマンに経済学賞を授与した。評価の中心に置かれたのは、不確実な状況における判断と意思決定の研究である。1996年に死去していたトヴェルスキーは、受賞の対象とならなかった。2017年には、二人の研究を経済学に橋渡ししたリチャード・セイラーが同賞を受賞している。
・選択の設計:2008年、セイラーとキャス・サンスティーンは、選択の自由を残しつつ選択の示し方を工夫する「ナッジ」の考え方を提示した。各国の政府がこの手法を政策に取り入れ、日本でも2017年に、政策に行動科学を活用するための組織が環境省の下に設けられた。
・手続きの負担:サンスティーンはその後、人々が権利を行使したり、望ましい選択をしたりすることを妨げる、手続き上の過剰な負担を「スラッジ」と呼び、その削減を論じた。書類の煩雑さ、手続きの不透明さ、時間と費用の負担は、それ自体が人々の選択を一定の方向へ押しやる。
・判断の能力の強化:心理学者ラルフ・ヘルトヴィヒとティル・グリューネ=ヤノフは、選択の示し方を設計するナッジに対し、人々自身の判断の能力を高める「ブースト」という考え方を提示した。統計情報を頻度の形で示すなど、ギーゲレンツァーの研究の流れを汲む発想であり、二人をめぐる論争が、異なる政策手法の補完関係へと発展したことを示している。
・判断のばらつき:2021年、カーネマンはオリヴィエ・シボニー、サンスティーンとともに著書『NOISE』を発表した。同じ事案について、専門家ごとに判断が大きく異なる「ノイズ」の問題を取り上げ、刑事事件の量刑や保険の査定などで、判断のばらつきが想定をはるかに超えていることを示した。偏りが判断の平均を一方向にずらす問題であるのに対し、ノイズは判断のばらつきそのものの問題である。
評価――行動経済学は、手続きの学問になりうるか
これらの展開を通じて見えてくるのは、二人の研究が、人間の判断の欠陥を指摘する学問から、判断を支える手続きを設計する学問へと発展してきたことである。
ゲーリー・ベッカーらの合理的選択理論が描いたのは、誘因を適切に設計すれば、合理的な個人の選択を通じて望ましい結果が実現される世界だった。二人の研究は、その前提を問い直した。しかし、それは合理的選択理論を退けることではなかった。誘因の設計に加えて、判断の手続きの設計が必要であることを示したのである。
もっとも、行動経済学の政策への応用には限界も指摘されている。政策の現場でのナッジの効果は、学術研究で報告された効果より小さいことが多い。また、一部の研究の再現性には疑問が呈されている。さらに、示し方の工夫が、本来必要な制度の改革の代わりに用いられることへの懸念もある。
これらの限界を踏まえれば、行動経済学の知見は、個人の選択を誘導する技術としてではなく、判断の手続きの公正さと透明性を高めるための原理として用いられるべきだろう。
含意――非上場株式の公正な価格のための手続き原則
本連載では、各章の検討を通じて、非上場株式の評価と価格決定に関する手続き上の課題を論じてきた。それらを、手続きの原則として整理すると、次のようになる。
・判断の接点を管理する原則:評価の方法の選択、組み合わせ、減額の幅など、評価者の判断が入る箇所を特定し、その理由を明示する(第1章)
・判断を構造化する原則:評価を要素に分解し、要素ごとに根拠を示したうえで、総合的な調整を最後に行う(第2章)
・比較の過程を開示する原則:比較対象の選定基準と、基準を変えた場合の評価額の変動を示す(第3章)
・開示を構造化する原則:評価額を左右する主要な前提を、要約として一覧で示す(第4章)
・証拠の重みを評価する原則:少数の取引事例や短い期間の業績を、単独の根拠としない(第5章・第6章)
・外側の視点で検証する原則:事業計画を、作成の目的と経緯を明らかにしたうえで、同種の企業の実績と比べて検証する(第7章)
・誤りから学ぶ回路を設ける原則:評価の事例を集積し、事後的に検証できる仕組みを整える(第8章)
・不確実性を数値で示す原則:将来の見通しを複数のシナリオと確率によって示し、曖昧さを減らす(第9章)
・複数の基準点を示す原則:提示額を一つの評価方法だけで示さず、他の方法による価格の範囲もあわせて示す(第10章)
・価値の配分を明示する原則:取引によって生じる価値の増加分と、その配分の基準を明らかにする(第11章)
・前提の比較によって対立を整理する原則:対立する評価について、合意点と相違点を前提ごとに示す(第12章)
これらに加えて、終章で触れた二つの視点を付け加えておきたい。
一つは、手続きの負担の問題である。少数株主が評価に異議を述べ、独立した評価を求め、裁判所に申立てを行うための手続きが煩雑で費用のかかるものであれば、それ自体が権利の行使を妨げる「スラッジ」となる。手続きの原則は、少数株主にとって利用可能なものでなければ意味を持たない。
もう一つは、判断のばらつきの問題である。同じ株式について、評価者によって評価額が大きく異なるなら、それは偏りとは別の、ノイズの問題である。評価の手続きを標準化し、評価のばらつきを測定することは、価格の公正さを担保するための前提となる。
非上場株式には、市場による価格の修正が働かない。その分、価格は少数の人間の判断によって決まり、判断の偏りとばらつきが、そのまま価格に残る。二人の研究が教えるのは、そうした領域でこそ、判断を支える手続きが市場の代わりを果たさなければならないということである。
「データと法理で資本の歪みを正す」。本連載が二人の研究から引き出してきたのは、この課題に取り組むための、人間の心の側からの根拠であった。
判断は偏り、そしてばらつく。市場が働かない場所では、手続きこそが価格の公正を支える最後の装置である。
※原著の記述に関する部分は、原著の目次、出版社による内容紹介、公開されている書評・要約などに基づく。
関連URL・参考資料
・マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、2017年7月)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163906836
・The Nobel Prize「The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2002」
https://www.nobelprize.org/prizes/economic-sciences/2002/summary/
・Richard H. Thaler, Cass R. Sunstein『Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness』(Yale University Press、2008年)
・Cass R. Sunstein『Sludge: What Stops Us from Getting Things Done and What to Do about It』(MIT Press、2021年)
・Ralph Hertwig, Till Grüne-Yanoff「Nudging and boosting: Steering or empowering good decisions」(Perspectives on Psychological Science、2017年)
・Daniel Kahneman, Olivier Sibony, Cass R. Sunstein『Noise: A Flaw in Human Judgment』(Little, Brown Spark、2021年)
・Stefano DellaVigna, Elizabeth Linos「RCTs to Scale: Comprehensive Evidence from Two Nudge Units」(Econometrica、2022年)