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分析は、なぜ意思決定の現場に届かないのか――『かくて行動経済学は生まれり』を読む 第9章「そして経済学も」

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意思決定の理論は、どう選ぶべきかを教えてくれる。しかし、その理論が現実の組織の意思決定を変えるとは限らない。

確率を見積もり、結果の価値を評価し、期待値の大きい選択肢を選ぶ。この手順は、意思決定分析として体系化され、経済学の期待効用理論によって理論的な裏づけを与えられてきた。それでも、国家や企業の重大な決定が、この手順に従って行われることはまれである。

同書の第9章は、1973年の戦争を経験したカーネマンとトヴェルスキーが、意思決定分析を現場に生かすことへの期待を失い、人間の選択そのものの理解へと向かっていく転機を描いている。本稿では、第9章の記述を確認したうえで、意思決定の規範理論とその限界を整理し、不確実性のもとでの株式の価格判断を検討する。

問題の所在――規範理論と現実の意思決定の距離

期待効用理論は、合理的な主体がどのように選択すべきかを示す規範理論として、きわめて強力である。法律や政策の分野でも、この考え方は広く用いられてきた。

しかし、規範理論が正しいことと、それが現実の意思決定に用いられることとの間には、大きな距離がある。その距離はどこから生じるのか。そして、規範理論を前提に設計された制度は、現実の人間の選択とどう噛み合うのか。

原著の記述――「戦う心理学者」と分析への失望

英語版の原題で「戦う心理学者の誕生」と題された第9章は、1973年の第四次中東戦争の時期を描く。開戦の報を受けた二人は国外から急ぎ帰国し、前線に近い場所で軍の心理学の任務に就いた。

二人をこの任務へと導いたのは、イスラエル軍の心理学部門を率い、軍の中での心理学の地位向上を唱えていたベニー・シャリットである。後年のカーネマンの回想によれば、二人は一台のジープで砂漠のシナイ半島を駆け回りながら、自分たちにできる仕事を探していた。兵士が命を落としていく中、二人は戦闘を終えたばかりの兵士から心理的なデータを集めようとしたが、カーネマン自身はその意義を確信しきれずにいた。

原著は、冒険を好むトヴェルスキーが、娯楽としての降下を続けたいと考えていたことにも触れている。父親となった彼に、それを思いとどまらせたのは妻のバーバラであった。

開戦以前の二人には、判断研究の成果を、国家の命運を左右する決定に生かしたいという志があった。その具体的な形として構想されていたのが、判断の誤りを組織的に減らすための意思決定の枠組みである。しかし、戦争の過程でイスラエルの情報機関の判断の失敗が相次ぐのを目の当たりにして、二人は、意思決定分析を組織の現場に導入することへの信頼を失っていく。

分析の手法がいかに正しくとも、それを受け取る組織の側に変化がなければ、決定の質は向上しない。この認識が、二人の関心を、人間は実際にどのように選択しているのかという根本的な問いへと向かわせた。

研究の整理――規範理論の系譜と、その揺らぎ

以下では原著から離れ、二人が向き合うことになる理論の系譜と、その揺らぎを示した研究を確認する。

・1944年、ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンは、いくつかの公理を満たす主体の選択が、期待効用の最大化として表現できることを示した。1954年には、レナード・サヴェッジが、確率そのものを主観的な信念として扱う理論を体系化した。

・1953年、モーリス・アレは、確実な結果が含まれる選択において、人の選好が期待効用理論の公理に反するパターンを示した。

・1961年、のちに国防総省の機密文書の暴露で知られることになるダニエル・エルズバーグは、確率が分かっているくじと、確率が分からないくじとを比べると、人は確率が分からない選択肢を、期待値とは無関係に避けることを示した。この「曖昧さの回避」は、サヴェッジの理論では説明できない。

・1964年、米中央情報局(CIA)のシャーマン・ケントは、情報分析の報告書で用いられる「可能性がある」「ありそうだ」といった言葉が、読み手によってまったく異なる確率として受け取られることを指摘し、言葉と確率の対応を明確にすべきだと論じた。予測の不確実性を組織の中でどう伝えるかという問題は、意思決定分析が現場に根づかない理由の一つとされてきた。

法の分野でも、期待値の考え方は規範として用いられている。1947年、米国の連邦控訴裁判所のラーニド・ハンド判事は、事故を防ぐための費用が、事故の確率と損害の大きさの積を下回る場合には、その対策を怠ることが過失にあたるという考え方を示した。のちに「ハンドの公式」と呼ばれるこの考え方は、法と経済学における過失の分析の出発点となった。

評価――規範は物差しとして生き残る

第9章が描く二人の転換は、規範理論の限界を示すものであると同時に、その役割を問い直すものでもある。

ゲーリー・ベッカーらの合理的選択理論は、期待効用理論を、人間の行動を記述する理論として用いてきた。アレやエルズバーグの研究、そしてのちの二人の研究は、この記述が系統的に外れる場面があることを示した。

しかし、そのことは、期待効用理論が不要になったことを意味しない。人間の選択が確実さや曖昧さに引きずられるからこそ、確率と結果を明示して選択肢を比べるという規範的な手順は、判断を見直すための物差しとして意味を持つ。ハンドの公式が、裁判官の直感ではなく、確率と損害の明示的な比較を求めたように、規範理論は、制度の中で判断を規律する道具として生き残るのである。

問題は、規範理論を前提に制度を設計しながら、その制度の中で判断する人間が規範どおりに振る舞わないことを、どこまで考慮に入れるかである。

含意――曖昧さの中で示される買取価格

非上場株式の少数株主は、典型的な曖昧さの中で選択を迫られる。

会社の財務状況や事業の見通しについて、少数株主が入手できる情報は限られている。会社側から買取価格が示されたとき、株主は、その提示額を受け入れるか、交渉や裁判所への申立てによって別の価格を求めるかを選ばなければならない。後者の結果は、確率さえ見積もれない曖昧なものに見える。

エルズバーグの研究が示すように、人は確率の分からない選択肢を避ける傾向を持つ。だとすれば、情報の乏しさそのものが、少数株主に提示額の受け入れを促す力として働く。曖昧さは、情報を持つ側にとって有利な交渉の条件となりうるのである。

この構造を踏まえると、次のような制度的な対応が考えられる。

・株式の評価に必要な財務情報を、少数株主が入手できる範囲を広げ、判断の曖昧さを減らすこと

・評価書において、将来の見通しを複数のシナリオとして示し、それぞれの前提と想定する確率を明示すること

・「可能性がある」といった曖昧な表現ではなく、数値や範囲によって不確実性を表現すること

・裁判所による価格決定の手続きや過去の判断の傾向について、少数株主が参照できる情報を整えること

曖昧さを減らすことは、少数株主の判断を規範に近づけるだけでなく、交渉における情報の偏りを是正することにもつながる。

次回は第10章を取り上げ、二人が期待効用理論に代わる理論として提示したプロスペクト理論と、選択の枠組みが判断を左右するフレーミングの問題を検討する。

曖昧さは、情報を持つ側に有利に働く。不確実性を数値で示し、情報の偏りを正すことが、公正な選択の前提である。

※原著の記述に関する部分は、原著の目次、出版社による内容紹介、公開されている書評・要約などに基づく。

関連URL・参考資料

・マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋、2017年7月)

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163906836

・SuperSummary「The Undoing Project: Chapter 9 Summary」

https://supersummary.com/the-undoing-project/chapter-9

・John von Neumann, Oskar Morgenstern『Theory of Games and Economic Behavior』(Princeton University Press、1944年)

・Leonard J. Savage『The Foundations of Statistics』(Wiley、1954年)

・Maurice Allais「Le comportement de l'homme rationnel devant le risque」(Econometrica、1953年)

・Daniel Ellsberg「Risk, ambiguity, and the Savage axioms」(Quarterly Journal of Economics、1961年)

・Sherman Kent「Words of Estimative Probability」(Studies in Intelligence、1964年)

・United States v. Carroll Towing Co., 159 F.2d 169(2d Cir. 1947)