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【小林ふみあき議員に捧げる批判】株主の権利は、誰のために制限されるのか 自民党「成長志向型ガバナンス」を検証する全20回 【第9回】株主還元を減らせば賃金は上がるのか

ステークホルダー論と資本配分の混同
株主還元を減らせば、従業員の賃金は上がるのか。この問いは、日本企業のコーポレートガバナンスを考えるうえで、極めて重要である。
近年、大企業の配当や自社株買いが増える一方で、実質賃金の伸び悩みが続いている。厚生労働省の毎月勤労統計調査も、名目賃金だけでなく実質賃金を継続的に公表しており、賃金問題は物価動向、雇用構造、労働時間、産業別動向などとあわせて検証する必要がある。そのため、「株主に配る資金があるなら、従業員に回すべきだ」という主張は、社会的に強い説得力を持ちやすい。
従業員は、企業価値を生み出す重要な主体である。人材は単なるコストではない。企業の競争力を支える資本である。企業が中長期的に成長するためには、賃上げ、教育投資、採用、働きやすい環境、健康、安全、キャリア形成への投資が不可欠である。
この点に異論はない。しかし、ここで注意すべきことがある。株主還元と賃金を、単純な奪い合いとして整理してよいのか。株主還元を抑制すれば、その資金は自動的に従業員へ配分されるのか。株主の権利を制限すれば、人的資本投資は本当に増えるのか。この問いを曖昧にしたまま、「従業員のため」という言葉で株主権を制限するなら、それはステークホルダー資本主義ではない。
資本配分に関する経営者責任の回避である。
株主還元と賃金は、同じ資本配分の問題である
株主還元と賃金は、対立概念として語られやすい。
配当。自社株買い。賃金。研究開発。設備投資。人的資本投資。内部留保。政策保有株式。これらはいずれも、企業が生み出した資金をどこに配分するかという問題である。したがって、株主還元を増やせば、他の用途に回せる資金が減る場合はある。しかし、それは「株主還元を減らせば賃金が上がる」ということを意味しない。
配当を減らしても、その資金が賃上げに回るとは限らない。自社株買いをやめても、その資金が人的資本投資に使われるとは限らない。経営者が賃上げを優先しなければ、資金は現預金として社内に滞留するかもしれない。低収益事業に再投入されるかもしれない。政策保有株式の維持に使われるかもしれない。失敗した買収や不採算事業の延命に使われるかもしれない。つまり、本質は株主還元の多寡ではない。
経営者が、企業価値を高めるために資本をどのように配分しているかである。
ステークホルダー論は、経営者の無答責を意味しない
近年、企業は株主だけでなく、従業員、顧客、取引先、地域社会、環境など、多様なステークホルダーに配慮すべきだという議論が強まっている。
この考え方自体は重要である。
企業は、株主だけで成り立つものではない。従業員がいなければ、商品もサービスも生まれない。顧客がいなければ、売上は立たない。取引先や地域社会との関係も、企業の持続的成長に影響する。
したがって、企業価値を中長期的に高めるには、従業員を含むステークホルダーへの投資が必要である。
しかし、ステークホルダー論には大きなリスクもある。それは、経営者の責任が曖昧になりやすいことである。株主の利益だけではなく、従業員のため、地域社会のため、長期的成長のため、社会的価値のため。
こうした言葉は、重要である一方で、検証が難しい。経営者が十分な賃上げをしない。株主にも還元しない。資本効率も改善しない。不採算事業も整理しない。
それでも「多様なステークホルダーに配慮している」と説明できてしまうなら、ガバナンスは機能しない。ステークホルダー論は、経営者に自由裁量を与えるための言葉ではない。むしろ、誰に、どのように、どれだけ配分し、それがどのように企業価値へつながるのかを説明する責任を強めるものでなければならない。
人的資本投資は重要である
人的資本投資は、企業価値に直結する。従業員の賃金が低すぎれば、人材は流出する。教育投資が不足すれば、競争力は落ちる。現場が疲弊すれば、品質や顧客対応に影響する。優秀な人材を採用できなければ、新規事業も研究開発も進まない。経済産業省は、人的資本経営について、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方として整理している。
その意味で、従業員への投資は、株主価値と対立するものではない。長期的な企業価値を重視する投資家にとって、人的資本投資は重要な評価対象である。したがって、企業が「株主還元より人的資本投資を優先する」と判断すること自体は否定されるべきではない。
むしろ、それが合理的な資本配分であれば、市場は評価すべきである。
しかし、重要なのは説明である。どの職種に投資するのか。どの層の賃金を上げるのか。一時金なのか、ベースアップなのか。教育投資なのか、採用投資なのか。生産性向上とどう結びつくのか。離職率、採用力、利益率、顧客満足度、技術力にどう反映されるのか。
これらが示されなければ、人的資本投資という言葉は単なるスローガンにとどまる。
株主還元抑制は、人的資本投資の保証ではない
株主還元を減らすことと、人的資本投資を増やすことは同じではない。企業が配当を抑制しても、その資金を従業員に回すとは限らない。自社株買いを控えても、その資金を賃上げに使うとは限らない。
したがって、株主還元を問題視するなら、同時に企業側の配分方針を問わなければならない。株主還元を減らすなら、その分を何に使うのか。賃上げに使うのか。教育投資に使うのか。採用に使うのか。研究開発に使うのか。設備投資に使うのか。負債返済に使うのか。現預金として抱えるのか。ここを明らかにしなければ、株主還元抑制は企業価値向上策とは言えない。
むしろ、経営者の裁量資金を増やすだけになる可能性がある。資本市場が問うべきなのは、株主還元を減らすかどうかではない。減らした資本を、どのように企業価値向上へつなげるのかである。
従業員と株主を対立させる議論の危うさ
従業員と株主は、しばしば対立する存在として描かれる。
従業員は労働によって価値を生む。株主は資本によって利益を得る。
この構図はわかりやすい。しかし、上場企業のガバナンスを考えるうえでは、単純化しすぎている。
従業員を軽視する企業は、長期的に企業価値を失う。
人材が流出し、現場力が落ち、技術が蓄積されず、顧客からの信頼も下がる。
その意味で、従業員への投資は、長期株主にとっても重要である。
一方で、株主を軽視する企業も、健全ではない。資本を預かりながら説明責任を果たさない企業は、市場から信頼されない。低い資本効率を放置し、政策保有株式や不採算事業に資本を固定し続ける企業は、長期的に企業価値を損なう。
つまり、従業員重視と株主重視は、本来、対立するものではない。両者を結びつけるのが、経営者による合理的な資本配分である。賃金も、投資も、株主還元も、企業価値を高めるためにどう組み合わせるかが問われている。
経営者責任を隠す構図
「株主還元が多いから賃金が上がらない」という議論は、経営者責任を隠す危険がある。賃金制度を決めるのは経営者である。人件費をコストと見るのか、投資と見るのかを決めるのも経営者である。人的資本投資を本気で行うかどうかを決めるのも経営者である。内部留保や現預金をどう使うかを決めるのも経営者である。政策保有株式を持ち続けるかどうかを決めるのも経営者である。
それにもかかわらず、賃金が上がらない責任を株主還元にだけ押しつければ、経営者の判断は問われにくくなる。
株主が悪い。アクティビストが悪い。短期主義が悪い。この説明は、経営者にとって便利である。しかし、本当に問うべきは、経営者が利益をどう配分してきたのかである。
従業員に配分してきたのか。成長投資に配分してきたのか。株主に適切に還元してきたのか。経営陣の報酬は妥当なのか。資本効率の低い事業に資本を固定していないか。
この検証を抜きにした株主還元批判は、経営者責任を曖昧にする。
東証が問うているのは経営資源の配分である
東京証券取引所が求めている「資本コストや株価を意識した経営」は、単に株主還元を増やせという話ではない。
企業が、自社の資本コストや資本収益性を把握し、市場評価を分析し、改善に向けた計画を策定・開示し、投資家との対話を通じて継続的に取り組むことを求めている。東証は2026年4月のアップデートでも、投資家の期待や取組みのポイントについて「経営資源の適切な配分」に重点を置いて整理している。
つまり、問われているのは経営資源の配分である。
どの事業に資本を投じるのか。どの事業から撤退するのか。人的資本にどれだけ投資するのか。研究開発にどれだけ資金を回すのか。政策保有株式をどう扱うのか。余剰資金をどう活用するのか。株主還元をどの水準にするのか。
これらを総合的に説明することが、上場企業には求められている。したがって、人的資本投資を重視する企業は、その方針を投資家に説明すればよい。賃上げが企業価値向上につながるなら、そのロジックを示せばよい。
長期投資家は、合理的な人的資本投資を否定しない。問題は、説明しないことである。
株主権を制限しても、人的資本投資は増えない
仮に、株主提案権や臨時株主総会の招集請求権を厳しくしたとする。それによって、アクティビストや少数株主が企業に意見を言いにくくなる。では、その結果として、人的資本投資は増えるのか。賃金は上がるのか。その保証はない。株主からの監視が弱まれば、経営者は資本配分について説明しなくても済むようになる。余剰資金を抱え続けることができる。政策保有株式を温存できる。低収益事業を続けられる。経営陣の報酬や地位を守りやすくなる。
その一方で、従業員への配分が増えるとは限らない。つまり、株主権の制限は、従業員保護の十分条件ではない。むしろ、経営者への外部規律を弱めることで、従業員にも株主にも説明しない経営を温存する危険がある。
労働者保護と株主権制限を混同してはならない
労働者を守るための政策は必要である。
賃上げを促す政策。価格転嫁を進める政策。非正規雇用の処遇改善。労働市場改革。リスキリング支援。最低賃金政策。労働組合の交渉力強化。人的資本開示の充実。
これらは重要な政策課題である。
しかし、それらと株主権の制限は別の問題である。従業員を守るために必要なのは、経営者に対して人的資本投資や賃金政策を説明させることである。
株主の質問を封じることではない。むしろ、株主提案権や株主総会は、経営者に人的資本投資を問う場にもなり得る。従業員への配分を重視する株主提案もあり得る。役員報酬と従業員賃金の格差を問う提案もあり得る。人的資本開示を求める提案もあり得る。
そのような株主の声まで制限するなら、従業員保護にも逆行する可能性がある。
「従業員のため」という言葉の制度的リスク
制度改正において、「従業員のため」という言葉は非常に強い。反対しにくいからである。しかし、強い言葉ほど慎重に扱わなければならない。
従業員のために株主還元を抑える。従業員のためにアクティビストを規制する。従業員のために株主提案権を厳しくする。従業員のために臨時株主総会を開きにくくする。
このような議論が進む場合、必ず確認すべきことがある。
その制度変更によって、本当に賃金は上がるのか。人的資本投資は増えるのか。経営者の説明責任は強まるのか。それとも、株主からの監視だけが弱まるのか。
もし後者であれば、それは従業員のためではない。経営者のためである。
報道によれば、自民党の成長志向型コーポレートガバナンス改革PTでは、株主提案制度の要件厳格化や、業務執行に関する定款変更を求める株主提案のルール見直しなども論点になっている。
このような制度改正では、従業員保護や成長投資という言葉が、株主権制限の口実になっていないかを慎重に見る必要がある。ステークホルダー論を掲げながら、実態として経営者への規律を弱める。これが最も危険な制度設計である。
本当に必要なのは配分方針の開示である
株主還元と賃金の関係を議論するなら、企業には配分方針の開示が求められる。
利益をどのように配分するのか。従業員への配分方針は何か。ベースアップ、一時金、教育投資、採用投資をどう考えるのか。人的資本投資の成果をどう測定するのか。株主還元方針は何か。設備投資や研究開発との優先順位は何か。政策保有株式や余剰資金をどう扱うのか。
このような情報があって初めて、投資家は企業の資本配分を評価できる。従業員も、自社の経営方針を理解できる。市場も、企業価値向上の道筋を検証できる。
株主還元を減らすかどうかではなく、企業がどのような配分哲学を持っているのか。ここが問われるべきである。
株主と従業員を対立させる市場に、健全な成長はない
株主還元を減らせば賃金は上がるのか。答えは、単純ではない。株主還元を抑えた資金が従業員に回れば、賃金は上がる。しかし、経営者がそう配分しなければ、賃金は上がらない。
したがって、問題の本質は、株主還元の有無ではない。
経営者の資本配分である。従業員に投資することは重要である。人的資本投資は企業価値を高める。
しかし、それを理由に株主の権利を制限する必要はない。むしろ、株主の監視と市場からの問いは、経営者に人的資本投資を促す圧力にもなり得る。
従業員と株主を対立させるべきではない。両者の利益を長期的に結びつけるのが、経営者の役割である。企業価値を高める人的資本投資を行う。合理的な成長投資を行う。余剰資金は適切に還元する。政策保有株式や低収益事業を見直す。
その全体を説明する。これが、本来のコーポレートガバナンスである。「従業員のため」という言葉で、株主権を制限してはならない。「株主還元を減らせば賃金が上がる」という単純な物語に、資本市場は流されてはならない。
必要なのは、株主の沈黙ではない。従業員への公正な配分と、株主への説明責任を両立させる経営である。そして、その資本配分を検証できる市場規律である。
【 関連URL・参考資料】
・ニューズウィーク日本版/ロイター「株主提案ルール見直し提言へ、アクティビスト報告徹底も=小林自民PT座長」
・日本取引所グループ「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」
・日本取引所グループ「『資本コストや株価を意識した経営』に関する要請のアップデートについて」
・日本取引所グループ「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応等に関するお願いについて」
・経済産業省「人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~」
・経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 人材版伊藤レポート2.0」
・厚生労働省「毎月勤労統計調査」
・財務省「法人企業統計調査 調査の結果」
・Wikipedia「人的資本」
・Wikipedia「株主還元」
・Wikipedia「配当」
・Wikipedia「自社株買い」
・Wikipedia「コーポレート・ガバナンス
・Change.org